舞台のイメージ
豊島与志雄
戯曲創作の場合には、その作者の頭に、一つの舞台がはっきり写っていなければいけない。云い換えれば、人物と事件とが――その現われが、一つの枠の中にかっきりはまっていなければいけない。
そういう舞台的イメージが、戯曲創作の場合には、最も大切であるように思われる。
小説とか対話とか戯曲とか……を区別するのに、出来上った作品について云えば、表現の形式が最も多く関係するだろうけれども、作者の創作的営みについて云えば、舞台のイメージの有無が、最も多く関係するように思われる。如何に戯曲の形式を具備していても、一つの舞台のイメージを以て書かれていない作品は、純粋に戯曲とは云い難い――(日本の文壇にはそういう所謂戯曲が余りに多すぎるような気がする。)
勿論作者にとっては、作中人物の性格や心理や動作や言語や其他あらゆるものが、はっきり浮彫になって見えていればいるほど、益々よい作品が出来るわけだけれど、戯曲になると、それら一切のものを盛る一つの容器――一つの舞台が必要なのである。盛らるべき中身と盛るべき容器とがぴったりとはまって、一つの世界を形造ることが必要なのである。
戯曲的な狙いというのは、それを指すのだと思う。
随って戯曲の創作はそれだけにまた厄介であり窮屈である。大抵の素材は、小説的には狙い易くても、戯曲的には狙い難い。
然し私が云いたいのは、そんなことではない。この戯曲的狙いの範囲を拡げるということである。
「読むための戯曲」とか「舞台を予想せざる戯曲」とかいう言葉が以前から存在している。それを正当な位置に引下して考えてみよう。
右の言葉が、現在の劇場の舞台を対象とするのならば、それは立派に存在し得る。然し絶対的の意味でならば、それは少しも存在の理由がない。
戯曲は元来何等かの舞台に即してるものである。もし何等の舞台も予想せず単に読むためにのみ書かれた戯曲があるとすれば、それは初めから戯曲ではない。対話か小説か……そんな風なものである。舞台面の説明をしたりト書を加えたりすることは、五号活字の間に六号活字を組み交えるようなことは、凡て不必要なのである。そんなことは、舞台の予想あって後に生れてきた形式である。
然しながら、作者が頭に写し得る舞台は、現在の劇場の舞台だけとは限らない。現在の劇場が拵え得ない舞台をも、作者は自由に頭の中で纒
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