しく思われる。然し父母にとっては、私よりも更に淋しかったろうと思われる。
 私は兄弟も姉妹もない全くの一人子である。それなのに、田舎の父祖の業を継ぐことをしないで、中学を卒業するとすぐ東京に出で、文学の方面に進み、東京で暮すようになった。そんなことが、何等の障害もなく、全く私一人の意志で、すらすらと運ばれてしまった。然しながら、私を故郷に引止めたい感情を、母は多分に持っていたろうし、また、政治や実業などに関係ある生活をしてた父は、文学なんかより法律などを私にやらせたかったに違いない。それなのに、父母と私とは、未来の抱負とか目的とか生活とか、そんなことに就て真面目に語り合ったことがなく、凡てはただ一二言で片付いてしまって、私は自分の思う通りに進んでき、父母はそれを黙って許してくれた。
 中学を卒業して東京に出てくる時、または、大学を卒えて東京に定住する時、父母と私とは、故郷の清らかな河原なんかに、夕凉みのそぞろ歩きをすることもあった。そんな時、夕映の空や河原の野花などを眺めながら、父母は私の今後の生活について話したかったろうし、私も自分の志望や目的などについて話したかったが、然しただ一二言のうちに互に首肯し合って、つまらないことばかりを話題にした。私が結婚する時だってそうだった。
 かく暗黙のうちに、父母は私に凡てを許し、私は自分一人で勝手な道を進んできた。それが、今になって振返ってみると、非常に有難いなつかしいことのようにも思えるし、何だか淋しいことのようにも思える。
 それは、理解などということを超越した、ただ心と心との繋がりだった。父母は私を広い深い慈愛のうちに包み込んで、凡てを私の意のままに任してくれたし、私は父母の慈愛に甘えながら、一人で勝手なことばかりしてきた。人と人とのこうした関係を、私は二度と経験したことがないし、また今後も二度と経験しそうには思われない。
 そして、私が今感謝の念に堪えないのは、そういうことによって私は、自分の生活の全責任を自分で負うという力強い感じを、胸の底にしっかと得てきたことである。
 父に対する感情は、常に私を鼓舞し力づけてくれる。
 私は実は、学校を卒えても父母の財産で生活していって、除々に創作などをする、そういった呑気な気持でいた。所が、家庭のことなんかには全く無頓着だった私は、学生生活を終える間際になって、父はいろんなこ
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