での白色、白昼の外光や深夜の闇の中に浮出す、ほの蒼きまでの白色、または月光に輝らし出さるる、薄紫にまがうまでの白色、その白色の花弁の中に、花粉の黄を小さく点出した色彩は、気品そのものの色彩である。それに眸を凝らす時、人は自ら心すがすがしくなって、気品の妙趣を悟るであろう。
 気品には一の渋味があり、而も同時に一つの新鮮味がある。気品は旧守でもなく、また新奇でもない。純粋の気品は、骨董と新考案とを包含し、両者を調和したものである。老と若と旧と新とをよせ集めて、而もその何れでもなく、老と旧との渋味を取り、若と新との新鮮味を取り来った、一種恒久的なものである。古さから来る拮屈傲峨と、新しさから来る自由暢達と、両者を具有してしっくりと落付いたものである。
 この落付きはまた、梅花の樹に見らるる。鋭角度をなしてぐいぐいと曲った古木から、すいすいと若芽を伸し、若きを育つる力を内に蔵した老幹と、老を生かす力で伸び上る若枝とが、しっくりと一つの気分にまとまって、苔生した古い樹皮と、艶々しい新たな樹皮とが、一様に花を出し開かせているのは、まさに気品そのものの姿である。老いたる枝と若き枝とを択ばずに、一様に咲き匂ってる梅花を眺むる時、軽佻と鈍重とを超越した気品の沈静に、人は自ら味到するであろう。
 気品はこの世に稀である。それは地上のものというよりも、寧ろ多く天上のものであり。この地上に在っては、その本来の面目を汚されるというのではないが、そこに在るにはあまりに清らかすぎる。然しながら、それを地上に引下して、己が所有とした所に、人の魂の朗かさがある。地上から天上へと人の魂がかけ渡した、多くの橋梁のうちの一つが、其処にあるとも云い得らるる。それ故に、気品は一の抽象であって、一の具象ではない。随って気品は、如何なる人にも親しまれ易い。
 梅花の感じは気品の感じである。けれども梅花は、一の抽象ではなくて具象である。それ故に人に親しまれ難い。余りに芳ばしい香を漂わせ、余りに凛乎たる気魄を示し、余りに清らかな色彩に成り、余りに妙味ある樹に咲くが故に、人間離れのした感じを以て人を郤けがちである。然しながら、梅花に眸を定めその香に心を澄すことは、必ずしも詩人にとってばかりではなく、普通の吾々にとってもよい。なぜならばそれは、地上の息吹きに天上の息吹きを交えることだからである。新たな心を以て梅花に接し
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