大した印象は与えなかった。
終戦になってから、その死体貯蔵場には、外から覗けないように古板の囲いがされた。が逆に、附近の人々の頭には、その内部のことが蘇ってきた。もう覗き見も出来ないので、嘗ての噂が一層誇張して想像された。元来が人通りも少なかった猫捨坂は、夜分など、ますます通行人が少なくなった。
坂下の或る門灯の光りが、ぼんやり見えてるきりで、坂全体が薄暗い。洞窟内の異様な臭気が、ふっと洩れてくるらしいこともある。ばかりでなく、焼け爛れた死体の髑髏や肋骨や腕や脛が、ふらりとさ迷い出てくるのだ。
坂は急で、通路の御影石の敷石はすべすべである。或る晩、荒物屋のお上さんが、転んで、足首を挫いた。
噂によれば、お上さんが坂を下りていると、どこからともなく声がしたという。
「早く行け、早く行け。」
おや、と思うと、また声がした。
「早く行け、早く行け。」
ぞーっとして、足を早めた。とたんに、転んだのである。
また或る晩、坂上の近藤さんの女中が、転んで、肱と膝とをすりむいた。
風呂屋からの帰りに、坂を上りかけると、声がしたのである。
「早く行け、早く行け。」
はっと思って、坂を上ってゆくどころか、引っ返そうとした。とたんに、転んだのである。
それらの声は、勿論、慴えた神経から来る幻覚であったろう。だが実は、俺にもそういう経験があるのだ。
母がまた疼痛に苦しみだし、頓服の鎮痛剤があいにく無くなっていたので、夜分ながら、医者のところへ薬を貰いに行った。猫捨坂を通るのが一番の近道だ。俺は平気でその急坂を上っていった。そして薬剤を貰い、帰りにも平気で坂を下りかけた。ふと、あの洞窟めいた地下室の古板囲いに、眼をやった。その中を、以前、俺も覗き見たことがある。嫌な気がして、眼を外らすと、あの時の異臭に似たものが鼻の先に漂ってくる。強い鼻息をして、坂を半ば下りきった時、なんとなくほっとした気持ちの隙間に、聞えたようだった。
「早く行け、早く行け。」
俺は坂を駆け下りた。別に恐怖は感じなかったが、醜怪なものがじかに肌に触れた感じだ。
母は苦しそうなうめき声をたてていた。その腰のあたりを姉が撫でてやっている。
「早かったわね。お母さん、頓服がきましたよ。すぐあがりますか。」
母は頷いて、意味のよく分らない声を出した。姉は薬をオブラートに包み、吸呑の水で服用さした。どこ
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