に影を落してる中に、ぼんやりと何かの姿がある。誰だ。見つめると、姿は消えてしまった。
 俺は眼を外らした。すると、またその姿が現われてきた。見えるのではなく、感ぜられるのだ。それをじっと見ると、姿は消える。眼を外らすと、また現われる。
 俺は眼をよそへ向けたまま、其奴の方へ近づいていった。見られるのをきらってるようだから、見てはいけない。
「お前は誰だ。」
「お前は誰だ。」と同じことを言う。
「人に見られるのが、嫌なのか。」
「お前こそ、人に見られるのが嫌だろう。」と逆襲してくる。
「嫌なものか、俺の方をじっと見てみろ。」
「さっきから見ている。なぜ顔をそむけるのか。」
 俺は言葉につまった。眼を向けたら、其奴は消え失せてしまうに違いない。俺がそっぽを向いてるのをいいことにして、俺の方をじっと見ているのだ。どうしてくれようか、と考えながら、俺はじりじりしてきて、眼を据えた。視線の真正面に、地下室の古板囲いがある。
 焼け爛れた死体の堆積の中から、白骨の手が一本にゅっと突き出ている。白骨の足も一本にゅっと突き出ている。手はどこかへ伸び出そうとしてるようだ。足はどこかへ駆け出そうとしてるようだ。どこへか、その方向がちぐはぐだ。
「早く行け、早く行け。」
 囁いたのは骸骨じゃない。すぐ側につっ立ってる姿だ。俺は其奴の方を見てやった。其奴も俺の方を見ている。眼が空洞だ、髑髏の眼※[#「穴かんむり/果」、第3水準1-89-51]だけの眼だ。
「あ。」
 母の眼じゃないか。俺の方へ無心に向けられていた母の眼じゃないか。
「お前は……。」
 言いかけたとたん、其奴の姿は消えてしまった。俺は全身に冷い戦慄を覚えた。不吉な予感がした。母の死が感覚される。
 異臭が漂ってくる。地下室内の死体の臭いだ。また、母の病室内の臭いだ。母。この俺を、この肉体を、胎内ではぐくみそして産んでくれた母が、どうしてあのような臭い汚物を垂れ流すのか。子宮癌、それはただ病気で、そのためだということは分っている。だが、あの腐爛は、情けない、悲しい。母……ばかりではない。俺の周囲のすべても異臭にまみれている。ここに行き倒れていた女を嗅いでみろ。捨て猫を嗅いでみろ。友人が、いや誰かが、嘔吐したものを嗅いでみろ。病室に寝起きしてる姉を嗅いでみろ。荷車をがらがら引っぱってた夫婦者を嗅いでみろ。俺があすこでキスした女の
前へ 次へ
全11ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング