ん。」
 それでも私達は愉快になってきた。そして電車が来たのでそれに乗った。赫ら顔の男は、私達が乗るのを見届けて、別の車室に乗ったらしかった。
 然し私が恐れたように、二度目に其処で逢ったという覚えの顔に出逢うことはそれきり殆んど無かった。私達は失望してきた。
 或る時、しるし半纒を着た二人の職人が私達と一緒に落ち合った。一人は酔っ払っていた。腕を打ち振りながらしきりに何やら怒鳴り立てていた。私達が立っていると、彼はぴょこりと頭を下げた。
「旦那、酒というものはいいものですぜ。酔わなきゃ酒の味が分らねえって。ははは。酔うたその夜は、うかうかと、寝なんすきみが可愛うて……。」と彼はいつか端唄を歌い出した。
「いい景気ですね。」と私は言葉をかけた。
 彼は唄を止めて私の方を見た。
「驚いたね、旦那、わっちの懐が見えますか。これこの通りだ!」そういって彼は懐を叩いてみせた。小金の音がじゃらりとした。「懐が温かけりゃあ腹の底まで温くなるもんだ。旦那、出かけやしょうかね。」そして彼は手を上げて向うを差し示すような様子をした。
「止せよ。」そう云って連れの男が彼の手を引止めた。
「何だと、何がよせだ、べらぼうめ。」
「まあいいからこっちへ来いったら。」そう云って彼はその男を待合所の中へ引張って行った。
「俺はこのままでは帰らねえぞ。」
「ああ、いいから少し静にしろよ。」
「よし。そう事が分りゃあ神妙にするってよ。さかずきを、だ、押えて伏せてきりぎりす、はたおり虫に……。」と彼はまた歌い出した。
 私は村瀬と顔を見合した。何だかひどく馬鹿にされたような気もするし、自分自身が馬鹿げても見えた。私達は黙っていた。
 電車が来ると、かの二人も乗ってきた。どうしたのか酔っ払った男も静にしていた。彼はクッションの上に横向きに腰掛けて、頭をふらふらさしながら眼を閉じていた。
 その夜、私達はどちらからいい出したともなくまたカフェーに寄った。そして麦酒を飲んだ。それから次のような約束をした。これからは初対面の者にでも必ず一人にだけは話しかけてみること、ただ一言だけでも話をすればそれでいいこと。
 私達は少し酔っていた。そして心の底には淡い憤懣の情を感じていた。何故だか分らないが、かの酔っ払いの職人が何かを私達のうちに投げ込んでいったのは事実だった。
 その後は、愉快な火曜と金曜とが続いた。私と村瀬とはいつもS――駅内に待ち合して、それから電車が来る間に、最も近づき易そうな人に言葉をかけた。「寒いですね」とか、「随分待たせますね」とか、それだけの言葉をかけると、いつも短い返事は返された。そして初めの失敗にこりて、大抵はそれだけで満足した。けれど向うの調子が多少柔かだと、個人的の問題はさけて時の天気模様だの社会的出来事だのについて簡短な話をすると、向うも簡短な返事をしてくれた。電車がすぐに来て誰にも話しかける時間がない時などは、淡い失望をさえ覚えた。そして私達は、上野駅から公園前までその夜の結果を語り合っては笑った。
 窖《あなぐら》のような薄暗い寒い歩廊の上に佇んで電車を待ってる間、私達には其処に居合わす人々が親しい友人のように思えて来た。皆が寒さに肩をすくめていた。恐らく皆腹も多少空いているようだった。皆何かがほしそうな眼付をしていた。そして皆陰欝な顔をしていた。もし皆が集まって晴々と談笑することが出来たら、その寂しい夜更けの時間もどんなにか愉快になるだろう。特に私達二人はどんなに愉快だろう。
「もっとどうにかいい結果が上らないものでしょうかね。」そう度々私達は、上野の公園前でくり返した。そして知らず識らず私達は大胆になり、執拗になっていった。
 或る日私は「いい結果」に出逢った。歩廊に立って二三人の乗客を物色していると、紡績の着物と羽織とを着て毛糸の襟巻に顔を埋めた三十四五の女が眼についた。一度たしかに見たことのある姿だった。
「今日は一つ冒険をしてみよう」と私は思った。
 其処へ村瀬が急いでやって来た。「やあ」と彼は云った。するとその声に紡績の女がふり向いて、ちらと微笑をした。私はそれに力を得た。彼女は私達のことを知ってるのかも知れないと思った。
 やがて私は彼女の方へ何気ない風で近づいて行った。そして暫く黙っていた後でいい出した。
「随分遅い電車ですね。」
「ええ、私はもう十五分許りも待っていましたのですよ。」
 その時、彼女の鼻の横に大きい痣《あざ》があるのに私は気付いた。少しつまった顔立ちにその痣が一種の親しみを添えていた。
「人でも轢いて後れたんではないでしょうか。」と私はまた云った。
「まさかそんなこともありますまいけれど、せめて待たせるなら待合所へ火でもよく熾しておいてくれると宜しいんですけれどね。」
「そうですよ。夜更けの十分は昼間の三十分位には当りますからね。」
「でも電車が後れた方が面白かございませんか。」
「え?」
「あなた方には屹度。」そう云い続けて彼女は笑った。
「あなたはそれでは私達のことを知っているんですか。」
「いえ、別に……。」
 そう云いかけて彼女は私の顔をじっと眺めた。
「いやいつか見られたんですね。これは驚いた。……おい村瀬君!」そういって私は村瀬を呼んだ。
 けれど村瀬が近づいて来る間に、向うに電車が走って来た。其処は線路がカーヴをなしていたので、電車は見えたかと思うとすぐ側にやってくるのであった。私は何にも云う隙がなかった。
「何れまた。」そう云いすてて私は電車に乗った。
 電車の中では何にも云わないことにしていた。その上、女は向うの方に腰掛けてしまった。ただ時々私達の方を見ていた。
 けれどもそれだけの結果でも私には非常な成功だった。私は嬉しくなった。
「なる程女の方が男よりは進歩してますね。」と村瀬は結論した。「これから女の方を狙《ねら》うとしましょうか。」
 そして私達はその「狙う」という言葉に笑い出した。
 結果は予期に反した。女の方が男よりも一層不愛想なことが多かった。
 或る時私は、一人の若い女に話しかけた。すると彼女はちらと私の顔を見たが、そのまま黙って向うへ行った。其処には五十位の老人が立っていた。女は彼に何か囁いた。と老人は一度頭を強く横に振って私の方をじっと見つめた。太いステッキを持った老紳士だった。眉根を寄せた鋭い眼の光りを私は見た。「しまった」と私は思った。何か罪を犯したような気が一寸した。
 けれども私達の心はもう非常に落付いていた。そして愉快になっていた。強い好奇心も働いていた。ただそのために以後二人連れの者には決して話しかけぬことにした。
「人間の心が一番よくうち開くのは、ただ一人で居る時に限る」と私は村瀬にいった。
 斯くしてS――駅で十二時すぎに落合った者には、種々な人が居た。重に中流以下の階級の者が多かったが、私達はなるべく自分と交渉がありそうな者を択んだ。私達の言葉をよく受け容れてくれる者は却って見すぼらしい服装をした者に多かったが、社会の階級というものが如何に親しみや距離やを人間の間に置いてるかを、私は感じた。その上、労働者などに話しかけることに、私は一種の自責の念を感じたのである。これは自分でも何故だかよく分らなかったが、然し実際の感情だった。と云って私は、自分のそういう行為が決して下らないものではないとも信じていた。本当に人間の心が素直である時には、私達のやり方は凡ての人から是認さるべきものと思っていた(然しこれは後からつけた理屈かも知れなかったが)。
 そして私達は、人間の心が如何に卑屈に出来てるか、如何に絶えず用心をし絶えず脅かされてるか、如何に敵意に満ちているかを、まざまざと見た。初めに言葉をかけると、向うの人も大抵は短かい返事をした。然し二度目に言葉をかけると、多くは返事もしないで、妙な陰険な眼付で見返した。夜更けであるのと、あたりが薄暗いのと、寂しい小駅であるのと、それがいけなかったのかも知れない。然し本当はそれがなおいいわけではなかったか。皆其処では心が淋しくはなかったか。また、もしこれが何か物でも尋ねるのであったら、皆親切に教えてくれたかも知れない。然し、用の無い言葉の方はよりよく人の心を温めるものではないか。――私達はそういうことまで考えた。理論は実行の後からついてくる、そう思って私達は二人で苦笑もした。
 然し何よりもそれは、私達の当時の生活状態では興味あることであった。
 薄暗がりで眺める人間の顔は変なものだった。私達が話しかけるのに気味悪がって遠くに立ち去って、またじろじろとこちらを顧みる者の顔の中は、ただ眼と口とばかりだった。眼は冷たく鋭く輝いていた。口は妙にだらりとしていた。眼には敵意があり、口には可笑しな愛嬌さえあった。美しかるべき眼と貪慾なるべき口とのその表情の矛盾は、やがて社会生活の矛盾を示すものではなかったろうか。眼が陰険で口が可愛いいものは、動物のうちに人間ばかりのような気もした。ただその時、鼻が少しも私の注意を惹かなかったのは変だった。
 十二月の末になって、いつとはなしに私達の注意をひく男が一人現われて来た。マントを着て草履をはいていたが、或は鳥打帽を被ったり、或は中折を被ったりした。殆んど一度置き位に私達はその男をS――駅の歩廊の上で見出した。私達が寄ってゆくと彼は遠くに歩いていった。多くは待合所の中に立っていた。それで一度も言葉をかける機会が無かった。
 不思議な男だぐらいに思って気にかけずにいるうちに、いつしか正月になった。で十日ばかり私達は「休んだ。」然し正月といっても別に用のある身でもなかったので、またすぐに初めることにした。特に正月になってからは、女に出違うことが多かったので、一層面白かった。結果だけは相変らずまるで駄目だった。然し時々、面白い男や女をも見出すことがあったので、それで我慢をしていた。
 一月の二十日頃からまた例の男が姿を現わし初めた。そしていつのまにか強く私達の注意を引きつけてしまった。
 彼は時々待合所の中に立って広告のビラを見ていた。それからまた反対の電車が来ると、その方へ寄って行って中を覗くようでもあった。歩廊に立っている時はいつも、柱の影や階段の隅を選んだ。然しやがて私達は、彼の眼が絶えず私達の方へ向けられることに気付いた。広告のビラを見てる時なんか、時々ちらと私達の方を横目で見るのが、其処の明るい電灯の光りで分った。そのくせ常に私達の前を避けようとしているらしかった。私達が彼が佇んでる方へ歩いてゆくと、すぐに彼は向うへ歩き出した。私達の一人が誰かに言葉をかける時は、彼は屹度薄暗がりの中にじっとこちらを透し見ていた。それがいつもまともにこちらへ顔を向けないで、横目で睥んでいた。
「あの男は眇《すがめ》かも知れませんぜ。」と私は村瀬に云った。
 背の低い肩の四角な男で、平べったい鼻の下に短い口鬚を生やしていた。いつも帽子を目深に被っていたが、額のつまっていることが顔の輪廓で察しられた。その眼が妙に陰険な光りを帯びていた。老年になって次第に零落してゆく者の眼で変に黒ずんだ鋭い光りを放つのがある。そういう眼の光りだった。普通より眼球が飛び出てるようでありながら、その光りは妙に奥深い趣きを持っていた。年齢は一寸見当がつかなかった。三十位かと思うと、四十位に見える時もあった。
 私達が電車に乗ると、彼も屹度乗って来た。然しいつも別の車室か、または私達に一番遠い隅っこに腰を下した。一度私達の方へ向けられている彼の視線を捉え得たと思ったことがあったが、いつもは別に私達の方へ注意してる風にも見えなかった。上野へ着くと、彼はすぐに何処かへ行ってしまった。その跡をつけてみるだけの好奇心も私達には起らなかった。否それよりも上野の駅を出るとすぐに彼の姿は見えなくなってしまうのであった。
「変な男ですね。一体何者だろう?」私達はよくそういう疑問をくり返した。「僕達に帰依してる者かもしれませんぜ。」とはては笑ってしまった。然し彼の黒ずんだ眼の光りが、いつとはなしに私達の心を乱しはじめた。
 或る夜、私
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