私達の外には商人体の二人連れの男と女中らしい一人の女とだけだった。皆待合所の中にはいっていた。時機は絶好だった。私は村瀬を其処に残して、向うの柱の影に立ってる女の方へ歩いて行った。女はちらと私に微笑みかけたが、急にわきを向いて取り澄した顔をした。
私は暫く立っていたが、やがてこう云った。
「馬鹿に冷えますね。」
「はあ。」
妙な返事だと私は思った。
「然し風が無いので助かりますね。」
「ほんとにね。」と云ったが、此度は彼女は調子を変えた。「随分電車が遅うございますこと。」
「そうです。こんな晩に待たせるのは不道徳ですよ。」
「まあ不道徳ですって……。」
その時かの男が待合所を出て私達の方へ歩いてくるのを、私は横目で認めた。彼は四五歩先の方へ立ち止って、線路の上を遠く見渡すような様子をした。
私達は一寸黙っていた。真黒な空から落ちてくる雪片が、向うの石垣を背景にして白く浮いて見えた。それをじっと見ていると、自分の身体も雪と共に地面に舞い落ちてゆくような気がした。すぐ前は低い線路で、その青白い色に光っているレールが、凡てのものを或るカタストロフへ引き寄せようとしているらしかった。私はふと不気味な恐怖に襲われて、側の女を顧みた。すると彼女も私の方を顧みて、眼で微笑んだ。頬の肉の豊かな、口の大きい眼に表情のある女だった。真白に白粉をつけていたので、電灯の薄ら明りと雪の反射との妙に陰影の無い明るみのうちに、その顔がぽかりと浮出して見えた。
「何処までおいでです。」と私はまた云った。
「あの清水町まで行くのでございますが。」
私は自分が本当に芝居をしているのか、夢を見ているのか、分らないような気持ちになった。夜更けの小駅と雪と女と怪しい男と、それが一つに融け合って夢のような幻を作った。私は黙っていた。
「清水町へ行きますにはやはり公園をぬけて行ったが宜しゅうございましょうか。」と此度は女の方から云った。「急用で参りますのですが、よくあの辺は存じないものですから。」
「そうですね。もう遅いから公園下をお廻りになった方がいいでしょう。私も丁度あちらへ帰りますから御案内しましょう。」
「そう願えますれば本当に安心致します。御迷惑でございましょうけれどどうか……。」
「なについでですから、お送りいたしましょう。」
「まあ私本当に安心いたしましたわ。屹度ですわね……そして向うの家もよく存じないものですからついでに、お宜しかったら、失礼をお願い出来ますれば……。」
これは少し乱暴だと私は思った。却って私の方が誘惑されてる形になってしまった。それで何とか云おうと思って暫くもじもじしているうちに、どやどやと三人の学生が階段をかけ下りて来た。するとすぐに電車が来た。
「では宜しゅうございますか。」そう云って女は先に電車に乗ってしまった。
其処へ村瀬がやって来た。私達は顔を見合して微笑した。例の男は、後ろの方に立っていた。
電車に乗ろうとする村瀬の袖を私は一寸捉えた。村瀬は私の顔を見返したが、すぐに私の意を察したらしかった。私達は何気なく電車の後部の方へ歩いて行った。そして電車が一寸動き出したと思う瞬間に、二人共車掌台の所へ飛び乗ってしまった。
その時である。かの男は向うで私達の素振りを窺っていたが、私達が飛び乗ったのを見ると急にかけてきて、同じく飛び乗ろうとした。と一方では、先に乗った女が私達を心配して車掌台の所へ出て来た。
「まあ何をしていらしたの」と彼女は云った。村瀬と私とは大声に笑い出した。それがいけなかったのだ。その笑声を聞いて、男は一寸身体の力をゆるめた。と一方では車台の柱につかまった手が強く彼を引いた。「危い!」と車掌は叫んだ。彼は横倒しに線路の上に引きずられ加減に転げ込んだ。
私達は息をつめた。電車はすぐに止った。大勢の乗客が出て来た。車掌は線路に飛び下りて行って彼を扶け起した。彼は立ち上ったが、またひょいとよろめて其処に坐ってしまった。黙って顔を伏せていた。異常な感動が皆に伝った。駅夫共が線路の向うの小屋から出て来た。
駅夫共から歩廊の上にかつぎ上げられた彼は、一人の駅夫の肩につかまって立ち上った。そして車掌に何やら云った。車掌が言葉を返すと、彼は手を振ってまた何やら云ってから、崖の上の駅の方を指した。そしてまた何か云って頭を振った。
私達はその間車掌台の所に立っていた。何かが私達を其処に釘付にしてしまったのだ。そして私達と彼との距離は僅か五六間だったが、不思議なことには、彼と車掌とが交わした言葉は少しも私達の耳にはいらなかった。ただ彼の身振りだけがはっきり私達の眼の底に残った。俯向けた彼の顔は暗い影に包まれて見えなかった。
やがて電車は彼を残したまま進行し出した。
「怪我をしたのですか。」と乗客の一人が車掌に尋ね
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