た。そして遠い安らかな旅に出たような落付きを感じた。寒い闇夜をついて走る響きが、一層車室の中の明るみを淋しい夢のような気分にした。停車場へ電車が止る毎に、幾人かの人が出たりはいったりした。皆静かに黙っていた。車の軽い動揺に全身の筋肉が心地よくたるんで、眼がぼんやりしてきて、私はついうとうととすることもあった。電車が上野に着くと、私は立ち上るのが名残り惜しいような気がした。それから十五分許りの道を大抵歩いて帰った。家の人達はいつも寝てしまっているので、私は自分で表の戸締りをした。
そういうことが、いつのまにか私の生活の一つの様式となってしまっていた。私はそれを週に三回位は欠かさずくり返していた。然しそのことだけは、私の日々のうちでも少しも退屈でない部分だった。碁盤の上の勝負には絶えず変化があった。電車の中で逢う人の顔も絶えず異っていた。夜更けの帰途には今にも何か変ったことが起りそうな気がした。人生とは云わないが、私の心のうちに澱んでいる退屈な憂欝を、一変してしまうようなことが何か起りそうな気がしていた。
そしてまた実際私は、変なことに出逢ったのである。否、変なことをしたという方が適当かも知れない。
夜更けの帰りにS――の歩廊で、見知りの顔が一つ私には出来るようになった。いつのまにその顔を見知ってしまったのか、私はその初めを少しも覚えていない。そういう初めの無い知り合いというものは全く妙なものである。私と彼とは、名前も住所も身分も互に全く知らない他人であるのに、顔だけはよく知り合っていた。S――駅で一緒になると、互に一種の親しい眼付きを交わした。電車の中でも、友人同志のように親しく相並んで腰を掛けることが多かった。上野で下りると、互にどちらの方向へ向って帰ってゆくかをはっきり知っていた(私は山下を右へ、彼は真直に広小路の方へ)。それでいて言葉を交えたことは一度もなかった。
痩せ形の背の高い男で、いつもよく雪駄《せった》をはいていた。眉が濃く短く、光りの鈍い円みを帯びた眼には何処か低能らしい趣きがあったが、高い鼻と小さな口とは上品だった。その口には小供らしい愛嬌があって、屹度舌ったるい声が出そうに思われるのだった(そしてそれは実際であった)。眼鏡もかけていず、口鬚も伸していなかった。そしてそういう顔立を、下細りの頬の輪廓がとり巻いていた。※[#「臣+頁」、第4水準
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