曹新は一気にいってしまって、そっと崔之庚の顔色を窺いました。崔之庚はただうなずきながら、やはり温和な柔い態度をしていました。
「ああ、それはよいことだ。」と彼は答えました。「どちらも、お前の気の向くようにするがよかろう。それから、わしについてもまた、なにかの碑を建てたくなるようなことが、近いうちに起るかも知れないよ。」
「それは、どういう意味ですか。」
「お前にも大体分ってると思うが、わしはもうすっかりあらゆる野心を捨てて、こういう生活をしている。徐和とは違った意味での隠遁だな。どうも吾々は、結局のところ、変なところへ突き当ってしまう癖があるらしい。ところが、そのために却って、危険な地位に立つこともあるらしいよ。」
崔之庚は微笑を浮べて何気なく話していましたが、それが、曹新には大きな不安となって響きました。
「まあ話はいつでもゆっくり出来る。」と崔之庚はふいにいいました。「冷紅がみごとな贈物を貰ったお礼に、早速、老酒の古い甕を開けることにしよう。紹興の本場物だよ。」
隅の卓子で古い絵本を繰っていた崔冷紅が、顔を挙げて、睨むような笑うような眼付を、崔之庚と曹新との方へ向けました。
崔之庚は立上りました。いと満足げな温良な様子でした。
そして、十日ほど後には、河のほとりの野原で、短刀に胸をえぐられて死体となってる崔之庚が見出されたのでありました。
その河のほとりに、今でも小さな然し頑丈な碑が一つ建っております。何のためのものとも分らない無銘の碑でありますが、もしそれに文字が刻まれたとしたなら、その文字を読み解けば大凡このような物語となるでありましょうか。
底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24])」未来社
1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「文芸春秋」
1940(昭和15)年12月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007年11月13日作成
2008年1月15日修正
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