自分であるかを彼は迷った。どちらも本当の自分であるとすれば、も一つその上に立つべき何かがある筈だった。それを彼は見出し得なかった。しまいには絶望的な気持になった。
そこへ不意に、全く不意に、保子が隆吉を連れて帰って来た。
十七
それは綺麗にうち晴れた日の午後だった。周平は二階の室で、午睡とも云えないほどのうとうととした気持で、聞くともなく蝉の声に耳をかしていた。すると俄に、玄関に俥夫の威勢のいい声や女中の頓狂な声がして、次に保子の落着いた張りのある声がした。周平はそれと気づかないうちに立ち上っていた。階下《した》にかけ降りてみると、僅かばかりの手廻りの荷物の中に、保子が隆吉の手を引いて立っていた。周平は一寸挨拶の言葉も出なかった。
「只今」と保子は云った。それから周平の顔を見つめた。「何を変な顔をしてるの? ……でも喫驚したでしょう。急に帰ることになったものですから、知らせる隙がなかったのよ。」
「先生は?」と周平は漸く尋ねた。
「お後《あと》。隆吉が病気なものですから、私だけ先に慌てて帰って来たのよ。」
然し見た所、隆吉は大した病気でもなさそうだった。ただ、動く度にひどく咳込んだ。保子はその上に屈み込んで、苦しかないかと聞いたりした。
座敷に床を敷いて隆吉は寝かされた。熱を測ると八度七分あった。かかりつけの医者へ女中が電話をかけに行った。帰りに氷を買ってきた。氷枕をさしてやった。――隆吉は初め軽い風邪にかかったのだそうである。それが変にこじれて、気管支加答児となり、高い熱が出た。或る日などは唾液に血が少し交っていた。肺炎にでもなりはすまいかという恐れがあった。然し非常に辺鄙な土地なので、いい医者が近くになかった。病気に神経質な保子は、兎に角東京へ帰ったがいいと云い出した。それで、横田だけ後に残って、保子と隆吉とが至急に帰ってきたのだそうである。
医者は都合して早く来てくれた。丁寧に診察した。病気は気管支加答児だけで、それも大したことはないそうだった。吸入に湿布に、熱があれば氷枕、過激な運動を避けること、それだけが手当の全部だった。
周平は医者の家へ薬を取りに行った。途中で郵便局に寄って、病軽し安心せよと横田へ電報をうった。医院へ行って処方箋を出すと、顔の大きな頭の禿げた薬局生が小窓から覗いて、御病人は如何ですかなどと云った。周平は厭な気が
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