私が来てからただ一度きりですから。」
「何で喧嘩なすったんだい。」
「何でだか私は知りませんけれど、お二階で夜遅く迄云い合っていらしたのよ。そのうち私共は寝てしまったから、何のことだったか分りません。けれど、それから二三日の間は、先生も奥様も黙りっきりで、一言《ひとこと》も口をお利きなさらないものだから、私共までほんとにびくびくしていましたわ。」
「それから?」
「それからって、それだけのことですよ。」
周平はぷいと立っていった。そんな話に好奇心を動かした自分自身が、変に不愉快になった。と共に、その不愉快さに対する反撥心が起ってきた。毒を以て毒を制したいような自棄気味になった。
彼は二階の書斎に上って、机や卓子や本箱の抽斗をかき廻した。もし横田の日記でもあったら、それを読むことによって、保子の日記を見出せない腹癒せをし、また、こんな所まで陥ってきた自分自身に返報をするつもりだった。
本箱の抽斗を探していると、丁寧に紙に包んだものが出て来た。中には、小形の洋罫紙が十枚ばかり、二つ折りにしてはいっていた。その一行を何気なく読んで、彼は危く声を立てようとした。それから、辛うじて驚きを押し鎮め、室の中を見廻し、抽斗を元のように閉め、洋罫紙を室の真中に持ち出して、その両面に細字で書いてあることを、彼は一心に読み始めた。
十五
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十月六日――俺は死を厭うものではない。然し好奇心によって死にたくはない。
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夜、〇・〇〇三に当る分量を服用している時、ふと〇・〇〇五の極量を越してみたらという気がした。次の瞬間には危いと思った。手先が怪しく震えた。そして厳密に分量を検査した。勿論千倍の溶液だから、少しの差は構わないようなものの、誤ってつまらない結果に陥りたくはない。
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十月七日――何という爽快な気持だろう! 陰鬱にぼやけていた世界が、俄に明るくなったのだ。凡てのものが輝いて見える。軒先に流れる日の光りが、それとはっきり見て取られるようだ。
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あの重苦しい幻影が消え失せたことは、俺にとって最も喜ばしいことなのだ。
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