を云うのよ!」と保子は云った。「もうあなたとは話をしない。」
 周平は顔を挙げた。保子は口を尖らしてつんと横を向いていた。その怒った様子を見て、彼はほっと助かった気がした。この場合、冗談や皮肉を浴せられるよりも、腹を立てられるのが一番心安かった。然し次の瞬間に、彼女の眼付が笑ってるのを認めた時、彼はどうしていいか分らなくなった。自分自身が醜く惨めに感じられた。
 そして、保子の側を離れて一人になると、その気持からしきりに脅かされた。はては苛立たせられた。その余憤を彼は、知らず識らず隆吉の方へ持っていった。
 周平がやって来る前に、隆吉はいつも自分の四疊半にはいって、小学校一年級の教科書を机の上に並べていた。そして周平の姿を、じろりと上目がちに迎えた。
「何か分らない所はありませんか。」と周平は云った。
「ありません。」と大抵隆吉は答えた。
 それでも隆吉は時々、二三の問いをかけることがあった。周平はそれを丁寧に説明してやった。然し隆吉は上の空で聞いていた。説明が済むと、片頬に少し笑靨をつくって、周平の顔をまじまじと見ていた。周平は馬鹿にされた気がした。知ってるのをお義理で尋ねたのだ、ということが感じられた。彼はわざと云った。
「分ったの。」
「ええ。」と隆吉は澄して答えた。
「もう何にも分らない所はありませんか。」
「ええ。」と隆吉はまた答えた。
 周平は読本を取って、それを読ましてみた。隆吉はすらすらと読んでいった。学校で教わらない所を読ましてみようかと、周平は考えた。然しそれは、教室の授業に対する興味を薄らがせることだった。復習の折に分らない点があれば、いくらでも教えてやらなければいけない。然し予習は、子供自身にうち任したがいい。たとい間違った解釈にせよ、子供自身の解釈を持って教室に臨ませるのが、教室の中を最も溌溂たらしめる所以である。そう周平は信じていた。それで彼は、学校でまだ教わらない部分に就ては、少しも隆吉に教えることをしなかった。然し隆吉は優秀な生徒だった。学校で教わったことはよく頭にはいってるらしかった。……彼はすらすらと読本を読んでいった。それでも一寸した間違いをすることがあった。周平は待ち構えていた。先刻からの小憎らしさの念が積っていた。その間違いを取り上げて、怠慢だと責めつけてやった。隆吉は平気だった。
「知ってるんだけれど、一寸間違ったんだもの
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