殆んどなおったようですから、下宿に帰ろうかと思っています。」
保子は眼を見張った。
「どうして急にそんなことを云い出すの。横田が帰ってくる迄居るつもりじゃなかったんですか。」
それは保子一人できめてることだった。周平は曾てそんな約束をした覚えはなかった。然し彼は云い逆《さから》わなかった。また本当に下宿へ帰るつもりでもなかった。
「居てもいいんですけれど……。」と彼は口籠った。
「よければ居たらいいじゃないの。それに、あなたが帰ったら隆吉が淋しがるわよ。」そして彼女は言葉の調子をゆるめた。「不思議ねえ、あなたは別に愛想もないくせに妙に子供から好かれる所があるのね。こないだ隆吉がふいに、井上さんがいつまでも家にいてくれるといいなあ、と云い出したのよ。井上さんにじかに頼んでごらんなさい、と云っといたんですが、何かあなたに云いはしなくって?」
「本当ですか。」
保子は微笑んだ。
「おかしな人ね。誰がそんなつまらない嘘を云うものですか。」
周平は眼を見据えた。あの時のことを思い出した。隆吉に対して変に気を廻したのが、今になってみると、馬鹿げてるようなまた恥しいような気がした。その気持がまだおさまらないうちに、保子は正面から尋ねかけてきた。
「でも、あなたは隆吉をどう思って?」
周平は顔を挙げた。が咄嗟に答えが出なかった。
保子は直にたたみかけてきた。
「あなたは隆吉を余り好きじゃないわね。」
周平はぎくりとした。それを更に押被《おっかぶ》せられた。
「あんなに慕ってるのに、どうして嫌いなんでしょう、変ね。」
その直截な言葉は、殆んど抗弁の余地を与えないのを周平は感じた。それでいて、妙に彼の気持へぴたりとこなかった。彼は隆吉を嫌いではなかった。かと云って好きでもなかった。思い惑っていると、保子はまた云った。
「先《せん》にはそうでもなかったが、この頃隆吉に対するあなたの様子は変よ。一体どうしたというの?」
じっと彼を見てるその眼には、非難の色は少しもなかった。却って、庇うような温情が現われていた。周平は眼をつぶった。それをまた開いた。
「私は隆ちゃんを嫌いじゃありません。」と彼は云った。「ただ妙に愛せられないんです。離れていると何だか可哀そうに思われてきて、胸に抱きしめてやりたいような気持になりますけれど、側に行くと、急に小憎らしい……というより、気味悪いよ
前へ
次へ
全147ページ中58ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング