んとうよ。わたしの方が真剣だから、男の浮気から護ってやるの。ねえ、お上さん……梶山さんだって、浮気だからだめよ。」
「浮気でなかったら、どうする。」
「うそ、うそよ。ほかの女とだって、分りゃしないわ。」
「ほかの女と浮気なんか、するものか。」
「決してしないの。」
「しないよ。」
「じゃあ、わたしとなら、どう。浮気しないの。」
「そうね、君となら、そりゃ分らん……。」
「あとで後悔するわよ。」
「君こそ、あとで後悔しなさんなよ。」
お上さんは、空の銚子を持って席を立った。
「まあまあ、お静かに願いますよ。」
食卓に肱をついてふらふらしてる私の肩を、桃代は捉えて、ぐいと引き起すのだ。
「梶山さん、ほんとに喜美ちゃんが好きなの。」
「うん、好きだよ。」
「どんな風に好きなの。」
「どんな風って……別に愛してるわけじゃないが、ただ好きだよ。本当のことを言えば、喜美ちゃんを見てると、今にたいへん不幸なことが喜美ちゃんに起りそうで、なんだか、胸が切なくなる……そんな風でね……。」
「それ、ほんとなの。」
桃代は私によりかかるようにして、そして突然、すすり泣くのだ。私はびっくりして、彼女の肩をかかえながら、喜美子はもしや彼女の身寄りの者ででもあるのかと、尋ねてみたが、彼女はもう泣きやんできっぱり答えた。
「いいえ、全くの他人だけれど、でも、わたし、ほんとに好きなの。」
そして彼女は押っ被せてくるのだ。
「さあ、話して下さい。喜美ちゃんのこと、なんでも話して下さい。わたしも話すわ。」
おかしなことに、喜美子はもうどこか遠くにいて、私達だけがそこに取り残され、酔いつぶれかけていた。お上さんが銚子を持ってくると、桃代はくずれた姿態のままで言う。
「お上さん、許してね。わたしたち、喜美ちゃんに結ばれたのよ。喜美ちゃん、どこにいるの。連れて来てよ。」
来るものか、遠くに行っちゃった、と私は思うのだ。そして桃代が、非常な重さでのしかかってくる。その太い眉、赤い唇、ぶ厚い耳朶、ちょっと毛の乱れてる襟足、そして何よりも、近視らしいくるっとした眼が、それぞれ別々に私の眼の前に廻転する。そしてそれらが一つ所に中心を求めて静まり返ると、彼女はもうそこに投げ出されてる一塊の肉体に過ぎなかった。
その肉体は、ただ柔かく温かくぼってりとして、そして行儀がよいのだ。意志も感情もないもののように、私の前に惜しみなく自分を投げ出している。――その夜から、私は幾度その肉体に取り縋ったことか。強い快楽もなかったが、倦きることもなかった。
桃代はその土地では、顔の売れた姐さん株で、気儘にひらのお座敷だけを勤めていた。私との仲は他へは内緒なのだ。だが加津美では公然のことで、喜美子の前でも遠慮はなかった。喜美子は私達の間を当然とでも思ってるらしく、或は寧ろ喜んでさえいるらしく、にこにこと楽しそうに私達二人を見る。私としては、失恋ではないが、失恋に似た感じだ。喜美子はもう手の届かないところにいるようでもあるし、すぐ掌の中にいるようでもある。なんだか焦れったいのだ。だから、焼け跡の野原に連れだして、夕日を眺めながら、彼女を相手に独語もするのだ。――喜美子はそんなことには頓着しない。梶山さんといえば、すぐに桃代姐さんだ。ああいう独語のあとでも、桃代姐さんだ。
桃代はやって来るのに手間取った。来た時は、少し酔っていた。ちょっと指先をつき、挨拶をして、食卓の横手にひたと坐る、それまではまあ形式だが、それから先もいやにしんみりしている。
「梶山さん、わたし今日はあやまるわ。御免なさい。」
私の方は見ないで、眼を伏せている。
「すこし、喜美ちゃんをいじめすぎたらしいのよ。」
「そんなことなら、僕にあやまることはないじゃないか。」
「そうだけれど、梶山さんにも関係があってよ。昼間、焼け跡で、梶山さんと何の話をしてたかと、いくら聞いても、何の話もしなかったと言うんでしょう。長い間二人でいっしょに腰掛けていて、口を利きあって、それで何の話もしないなんて、そんなことがあるもんでしょうか。でも、どうやら喜美ちゃんの言うのがほんとらしいわね。」
「ああ、あれか。なるほど、喜美ちゃんはうまいことを言うね。野原のことや、川のことを、僕が独りで饒舌ってたんだ。喜美ちゃんは聞いてたかどうかも分りゃしない。まったく、何の話もしなかったわけだ……。君も見たのかい。そんなら、声をかけてくれたっていいじゃないか。」
「しばらく立って見てたわ。でも、声をかける隙がないんですもの。」
「声をかける隙がない……なんだい、それは。」
「何と言ったらいいかしら……。まあね、二人で、心中の相談をしてるとか、そんな風で、声をかける隙がないのよ。」
「ばかだね、そんなことを……。」
「でも、わたしが男なら、喜美ちゃんと
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