敷にだけ、彼女はいるのだ。
その彼女は、いつも髪をきれいに結っている。どんなに乱酔してもその髪を乱さない。顔から肩にかけて、いつも白粉がぬられていて、決して素肌を見せない。水で洗ってもそれは落ちないだろう。眉が太く、眼が近視らしく、大まかな顔立だが、なにか巧妙な糸で操るような微妙な表情をしながらも、決して相好を崩すということがない。大きく衣紋をぬいた着附だが、襟元はきっちり合さって、帯は常に寸分の狂いもない位置に定着している。上半身は反り加減に、胸も背も板ででも出来てるようで、腰だけでしか屈伸しない。ぴたりと端坐する膝は、蝶番のようで、横坐りには片手を畳につかなければならない。その全体が、いつも香水の仄かな匂いをつけ、それが肌身にまでしみこんで、体臭というものがない。寝床にはいるにも、長襦袢に伊達巻をきりりと胸高にしめ、肉附の多い体躯を軽やかに横たえ、そしていつもきまった姿態を崩すことがない。――すべてが、一定の型にはめられている。
喪失したのは、そういう肉体だ。一定の型に訓練され馴致された肉体だ。それは桃代であろうか。いや誰でもよいのだ。それならば、あの桃代はどこにいるのだろうか。
さむざむとした思いで、一人考えこんで、飲んでいると、いつのまにか喜美子が来ている。じっと見返すと、喜美子も私の方をじっと見ていたが、ふいに、涙をはらはらとこぼす。声も立てず、肩も震わせず、ただ涙だけが流れる。自然に雨が降るような泣き方だ。桃代の枕頭にいた時と同じだ。
その涙がやむのを待って、私は尋ねた。
「喜美ちゃん、桃代は亡くなる時に、何か言いはしなかったの。」
喜美子は頭を振る。
「何にも言わなかったの。」
「ええ。だけど、その前に、しんみり言ったことがあるわ。」
「どんなこと。」
「男のひとに、決して肌身を許してはいけないって、そう言ったわ。一人のひとに許すと、また、二人めのひとに許すようになる。二人めのひとに許すと、また、三人めのひとに許すようになる……。」
そして彼女は宙に眼を据えて、何かを思い出そうとする様子で、言い続ける。
「それから、たしかなひとと結婚なさいと言ったわ。そしてまた言いなおしたの。一人のひとと結婚すると、また、二人めのひとと結婚するようになる。二人めのひとと結婚すると、また、三人めのひとと結婚するようになる……。」
「それで。」
「それだけよ。
前へ
次へ
全13ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング