い。」
「僕のことじゃないよ。喜美ちゃんが風邪を引きはしなかったろうかと……。」
 彼女は眼を二つ三つ大きくまたたいて、私を見た。
「だから、一杯飲むといいよ。」
 彼女はちょっとためらって、そして微笑む。
「一杯だけよ。」
 その一杯を、幾度にも区切って飲んでから、ねだるように言う。
「桃代姐さん、呼びましょうよ。」
 喜美子の口から、桃代姐さんと、桃代さんと、二通りの言葉が、ごく自然に出てくるのだ。これは他の者には普通にないことだ。姐さんがつく方は、お座敷の場合、つまり芸者としての場合であり、それがつかない方は、ごく親しい気持ちで信頼する場合らしい。その二通りの呼名に、私はへんに気持ちがこだわるのだが、それを喜美子へは説明のしようもない。
「ねえ、いいでしょう。」
 喜美子の言うことには私は逆らえないのだ。私が頷くと、彼女はすぐに立ってゆく。
 桃代姐さんが来るとなれば、私はじりじりと追いつめられて、酔っ払うより外はないのだ――。あの時だってそうだった。もっとも、あの時は初めから、私も彼女も酔っ払っていた。雪が降っていて強いのを飲んだのだ。
 雪の夜はわりに温いというが、その夜はしいんと底冷えがした。富久子が帰っていってから、お上さんも顔を出し、桃代はもうほかへ廻るのは嫌だと腰を落着け、三人で炬燵にあたりながら、よもやまの話に耽った。丁度カツミをやめたばかりのところだったので、あれの内実は喫茶店だったのか酒場だったのかというようなことから、喜美子のことにも話が及んだ。
「もうとって十八ですものね。ゆくゆくは養子を迎えるつもりですけれど、それまでどうしたものかと迷ってるんですよ。」とお上さんは私に向って相談するように言うのだ。
「いまさら芸者に出すわけにもゆきませんし学問をさせるわけにもゆきませんでしょう。芸事と言えば、あの通りあっちこっち生噛りですからね。」
 桃代はウイスキーをぐっと飲んで、じれったそうに言う。
「お上さんて、喜美ちゃんのこととなると、意気地がないわね。今のままでいいじゃないの。」
「そうでしょうか。」
「そうにきまってるわ。ここの娘さんでいいじゃないの。」
「そりゃあね、わたしがこれから十年も二十年も生きてるとすれば、それでいいんだけれど、この節、へんに胃が痛むんでね……。」
 お上さんの胃が痛むのは、いつものことで、よく知ってる者には口癖と
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