白木蓮
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

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 桃代の肉体は、布団の中に融けこんでいるようだった。厚ぼったい敷布を二枚、上に夜着と羽根布団、それらの柔かな綿の中に、すっぽりとはいっているので、どこに胴体があるのか四肢があるのか、見当がつかない。実は、体躯はそこにあるに違いないが、それも既に、死の冷却と硬直と分解に委ねられているだろう。それは彼女の肉体ではない。――肉体の喪失を、私はそこに感じた。
 彼女の枕辺近くに坐った時の、その感じは奇妙なものだった。私は彼女に告別に来たのだが、彼女の肉体はそこになかった。それでも、彼女はそこにいた。彼女の顔がそこにあった。白布をかぶり、髪の毛を解き流しにして、仰向けに、長い枕の上に埋まっている。
 その顔の白布を、喜美子はそっとまくった。死顔を私に見せるつもりらしい。だが、彼女はすぐ堪えきれなくなって、白布を元に戻し、涙をほろほろとこぼし、声を立てずに泣いた。雨が降るような自然な泣き方だ。
 私は数秒、死顔を見た。殆んど生前通りだった。誰がしたのか、唇には紅がぬってある。眼も凹んでいず、閉じた瞼に、長い睫毛が並んでいる。ただ、頬の肉附が、指で押したらそこだけ凹みそうな工合だ――。急性肺炎で倒れてから三日間、手当のひまもないほど急に、心臓の働きがとまってしまった由である。
「桃代さんが、急に、亡くなりましてね……。」
 私の顔色は見ないで、独語のように、加津美のお上さんは言った。
「お別れに、いらっしゃるんでしょう。……様子を見てくるわ。」
 喜美子は一人できめて、向う隣りの桃代の家へ駆けだしていった。
 そして私は喜美子に案内されて、桃代に別れに行ったのだが、気持ちは、悲しみではなく、なにか大きな喪失感だった。前々日、加津美で、桃代が病気なのを聞いた時、そして一人で飲んでいた時、へんな肌寒さを予感のように感じたものだが、それも心配の種にはならなかった。それから、彼女の寝姿を前にして、ただ、何かがなくなった、という気持ちにぴたりと落着いた。――彼女の肉体がなくなったのだ。
 油単のかかってる箪笥、覆いのしてある鏡台……、
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