呆気にとられたような眼付をして、私の顔ばかりを見つめていた。私は極り悪さのてれ隠しに、後始末の方へ話を向けていった。
「明日になったら、お前行って、よく謝った上で、羽織を貰ってきてくれないか。」
妻は暫く返辞もしなかったが、やがてとってつけたように答えた。
「いやですよ、そんな気の利かないお使なんか。」
「だって僕が行くのも何だか変だし、お千代をやるわけにもゆかないし、まあお前が行ってくれるのが、一番順当だろうじゃないか。」
それでも妻は行くのを承知しなかった。自分で仕出来したことは自分で始末するのが当然だ、と彼女は主張した。お前の方が隣りの人達と顔馴染があるから、と私は云った。然し私は玄関まで挨拶に行ったきりだが、あなたは長火鉢の前に坐り込みまでなすったのだから、と彼女は云った。でもそれは酔った揚句の間違いだから、と私は云った。男って重宝なもので、何でも酒のせいにすればよいと思ってる、と彼女は云った。……そんな風に水掛論に終って、なかなかはてしがつかなかった。そのうち私は変に陰鬱になって、話を中途で切上げて、布団にもぐり込んでしまった。
悪醒めのした酔が、また変に頭に上ってきて、みしりみしりと天井裏を誰かが歩くような、気味悪い遠い頭痛を感じてきた。私はもう何もかも忘れたい気になって、頭痛の音を数えていたが、いつのまにかぐったり疲れて、そのまま眠ってしまった。
翌朝、明け方に一寸眼を覚したが、宿酔めいた灰汁《あく》どい気持のうちに、凡てがもやもやと夢のように入乱れた。それからまたうとうとと眠った。
十時頃だったろう、私は妻から呼び起された。
「あなた、羽織を貰ってきましたよ。」
紺のお召の一重羽織を、彼女は笑いながら打振ってみせた。私はむっくり身を起した。
「行ってくれたのか。」
「ええ、行かなけりゃ仕方ないじゃありませんか。あなたが御自分でいらっしゃるわけにはゆかないし、女中をやるわけにもゆかないし、私より外に誰もないじゃありませんか。」
昨夜私が云った通りのことを、平気で自分から繰返してる彼女を、私は妙な気持で眺めてやった。
「行ってみると、案外やさしい気の置けない人達ですよ。そして、昨夜はお隣りの御主人も、やはり御友達と酒を飲んで遅くなられて、丁度留守中にあなたが飛び込んでゆかれたものですから、そりゃあ喫驚なすったそうですよ。見た人だというきりで、何処の人とも分らないので、羽織の始末に困っていらした所でしたわ。私が話をして謝ると、皆で放笑《ふきだ》してしまいました。お隣りの御主人も、やはり変な間違いをなすったことがあるんですって。」
「どんな?」
「あなたのより少したちが悪い、と御自分で云って、お話なすったのですが……。」
そして彼女の語る所によれば、隣りの主人は、或る日細君と一緒に散歩に出て、細君が何か買物をするのを、ぶらぶら歩きながら待っていた。その買物がまた馬鹿に手間取って、待ってるのが焦れったくなり、初めは店の近くを歩いたり立止ったりしていたが、後には少し遠くまで歩き出し、苛ら苛らしていると、妻君はいつのまにか店から出て来たとみえ、素知らぬ顔で向うへすたすたやってゆくのが、後姿でそれと分った。で彼は少し向っ腹で、後から追付いてゆき、「何を愚図愚図してたんだ、」と小声で叱りつけ、人をさんざん待たせといて、一人で先に帰ってゆくってことがあるものかと、そんな風な泣言を並べながら、彼女が立止って振向いたのをちらっと見ると、それは一面識もないよその女だった。彼はすっかり狼狽しきって、丁度私と同じように、こそこそと逃げ出してしまったそうである。
「あなたの御主人の方は家だからいいが、私の方は他人の細君だから、そりゃあ弱りましたよと、そう云って笑っていらしたわ。そして、これを御縁にちょいちょいお遊びに来て下さいって……。」
「そりゃ皮肉なのかい。」
「いいえ本気よ。」
「へえー。」
だがその時、私は俄に元気づいて、勢よくはね起きたのだった。そして水をじゃあじゃあ頭に浴せると、愉快な晴々とした気持になった。
「おい、これから時々間違えて、二人で隣りへ押しかけてゆこうじゃないか。」
「何を仰言るのよ、すぐ図にのって。」
「それから、隣りでその外に何か云ってはしなかったかい。」
「いいえ別に……。」そして彼女は一寸考える風をした。「ただあなたと同じことを云っていらしたわ。二軒共余りよく似ていて、不思議なほど同じだって……。」
不思議なほど同じ……そう私は心の中で繰返して、すーっと日が陰ったような、一寸怪しい心地がしてきた。こうしていても、私の家へだって、いつ間違えて他人が飛び込んで来ないとも限らない。私の妻が、いや殊によると私までが、いつ他人から人違いをされないとも限らない。もしそんなことになったら……。
そしてそういう気持が、まだすっかり納まりきらないでいる、その日の晩、私は友人と二人で或るカフェーにはいって、つい気になるまま、引越し以来の顛末を話してみた。そして実は、いつも真面目くさってるその友人から、きっぱりと心が落付くような言葉を、それとなく期待していた所が、友人は私が話し終えるのを待って、変に眼をぎらつかせながら云った。
「そりゃあ面白い。実を云うと、僕はその方面では常習犯でね、自分一人かと思って、少し心細がってた所だ。」
「常習犯だって?」
「まあそうだね。……ただ漠然と云ったのでは分るまいから、詳しくその気持を話してみよう。」
そして彼は、珈琲でぐっと喉を濡おしてあたりをじろりと見廻して、それから話しだした。
「君もよく知ってる通り、僕は一体陰気で無口で沈みがちな男だ。所がどうかした機会《はずみ》で、急に快活に陽気になることがある。その時の僕の心持は丁度、今まで曇ってた空が俄に晴れて、美しい日の光が一面に降り注いでくるようなものだ。そして僕は非常に愉快な軽やかな気持になって、大抵の用なんかは忘れてしまって、浮かれたように街路《まち》を歩き廻るのだ。
「人が沢山通ってる、実に沢山通ってる。その顔がみな親しく感じられて、おい! と僕は呼びかけてさえみたくなる。ばかりならまだいいけれど、とんだ思い違いをすることがよくある。通りすがりにちらと見た顔が、どうも或る知人の顔だと思えてくる。で後を追かけていって、そっと横から覗いてみると、そいつが人違いなんだ。向うは変な顔で見返すし、僕は極りが悪くなって、そのまま黙って逃げ出してしまう。然しその後まで、何だか気になって仕方がない。実際その人は僕の知人であるのに、僕も向うも、何かの調子で他人だと思い違えたんじゃあるまいかと、そんな風に思われるのだ。
「それからまた、こういうこともある。向うから来る人の顔に、確かに見覚えがあるような気がする。それも非常に親しい記憶なんだ。ただその名前だけが、どうしても思い出せない。そのうちに、だんだん近寄ってくる。そして僕は帽子に手をかけて、お辞儀するでもなくせぬでもない、中途半端な態度を取ると、向うでは素知らぬ顔で通りすぎてしまう。呆気にとられてその後姿を見送ると、やはり僕の方の思い違いらしいんだ。と云って、そうばかりでも済まされない気持がする。
「一体君、他人の空似ということが、そう度々あるものだろうか。人間の顔は皆よく似寄ってるものかしら。僕は電車の中で、向う側にずらりと並んでる人の顔を、一々注意して見たことがある。所がどれもこれも皆違ってるね。見違えるほど互によく似た顔というものは、一つだってありはしない。勿論兄弟だの二子《ふたご》だのには、随分よく似た顔もあるだろうが、それだって、見違えるほどのものは少いだろうじゃないか。
「所が僕には前に云ったようなことが度々起るんだ。そしてそれはいつも、僕の心が愉快にのんびりしてる時のことなんだ。君、人間は心が愉快にはずんでる時は、何もかもごっちゃにしたがるものだろうかしら。それともそういう気持は僕一人きりなのかしら。
「或日のことだった。僕は或る友人――かりにBとしておこう――そのBの家へ行こうと思って、電車の停留場まで歩いていった。その時僕は、快活の発作……と云っちゃ変だが、兎に角非常に楽しい気分になっていた。西洋人の子供かのように、軽く足を踊らして人道の縁石の上を歩いていた。すると向うに、一人の知人――かりにNとしておこう――そのNが立っているんだ。僕はつかつかと歩み寄って、軽く会釈したものだ。向うでも会釈を返した。そして僕達はこういう会話をした。――『何処へおいでですか。』――『一寸神田の方まで。』――『そうですか。……僕の家はすぐこの向うですから、おついでの時にはお寄りになりませんか。』――『ええ、有難う、そのうちに是非。』――そこへ電車が来た。Nはそれに乗った。僕は反対の方へ行くのだった。『では失礼、』そう云って別れた。
「それから三十分許りの後、僕はBの家へ行った。驚いたことにはNが来合していた。僕は変な気がして尋ねてみた、『あなたは先刻、神田の方へ行くと云ったんじゃないんですか。』するとNは腑に落ちない顔付をした。よく聞いてみると、彼はもう二時間の余もBの家で話し込んでいたんだそうだ。
「僕の話を開いて、BもNも笑い出してしまった。そして結局、僕が人違いをしたのだということになった。してみると、僕が前に停留場で言葉を交わした男――それをかりにNNとすれば――そのNNも随分気楽な奴に違いない。
「所が僕には、NとNNとの区別がどうもはっきりしないんだ。二人の顔はどっか違ってるようでもあれば、また同じようでもあるし、何だかぼんやりとこんぐらかってしまった。
「種々の記憶を辿ってみると――僕は日常のことについては非常に記憶の悪い方だが――Nとは五六度逢ったことを思い出した。電車の中で一度、展覧会で一度、往来で二度ばかり、帝劇の廊下で一度、それから……友人の所で初めて紹介された時や、其後友人の家で出逢ったのなどは、勿論計算に入れないとして……まあ其他にもあったようだ。そしてよく考えて見ると、一寸挨拶をしたきりの対面であったが、それが果してNであったかまたはNNであったか、はっきり区別がつかなくなった。で僕はそれを一々Nに問いただしてみた。すると、展覧会でと往来で一度とはNの記憶にもあったが、帝劇の廊下や電車の中のことは、Nには思い出せないらしかった。そして要するに、何だか訳が分らないことになってしまった。
「それから数日後のことだった。僕は銀座通りで偶然Nに出逢った。挨拶をしておいて、僕は真先に尋ねてみた。『あなたはN君ですね。』向うでは笑いながら答えた。『本当のNですよ。名前を聞かなきゃ分らないようでは困りますね。』それで僕は初めて安心したものだ。
「実際君、名前を聞いて初めてその人だと安心するようでは困ることだ。然しNに対しては、僕は妙に怖気がついてしまった。同じような顔付が、頭の中で二つになったり一つになったりした。
「其後、或る薄暗い雨の日だった。僕は込み合った電車の吊革にぶら下って、この電車がひっくり返ったら……などと呑気なことを考えていると、すぐ向うにNが立っていた。はっと気付いて声をかけようとすると、向うから先を越されて会釈をされた。その瞬間だ、僕にはそれがNNに違いないと思われた。どうもNではない。で僕はNNによく話をしてみて、今迄互に何か思違いをしていたことに、きっぱり解決をつけようと考えた。そして歩み寄って行くと、向うからこう云われた。『僕はここで失礼します。僕の下宿はこの向うの○○館ですから、どうかちと……。』そして彼は電車を降りていった。僕は全く茫然としてしまった。いつかちらと聞いたことを思い合せると、其の下宿は君、やはりNの下宿なんだから。」
卓子の上に両肱をのせ、少し前屈みになって、じっと一つ所を見つめてる彼の眼付――妙にぎらぎら光るものと、沈んだ沈鬱なものとが、交る代る浮んでくる彼の眼付を、私はぼんやり見守りながら、話が途切れても一寸は気付かなかった。暫くして私は漸く促した。
「それから、どうした?」
「どうって、それっきりさ
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング