忘れるともなく忘れかけていたことを責めるかのように、胸の奥にひたと寄り添ってきました。
 彼女が亡くなったあと、あの藤の木は二回ほど春を迎えた筈でありました。そのいずれかに、果して花をつけたでありましょうか。二回目の春の終りには、あの辺一帯は空襲により罹災して、細川の家も焼けましたので、藤の木も焼けたに違いありませんでした。
 彼女の病死前後のことについては、保治の妹はくわしく知っていました。然し藤の木のことについては、一向に知りませんでした。保治は知らず識らず、藤の木のことを何度か繰り返し尋ねました。妹は怪訝そうに眉根を寄せました。
「藤の木って、いったいどんなんだったの、わたしちっとも気がつかなかったわ。」
 美代子が藤の花のことをなにか言いはしなかったかと、保治はまた繰り返し尋ねました。
「そんなこと、一度も聞いたことがないわ。おかしいわね、兄さん、藤の木ばかり気にして……。」
 妹からじっと顔を見られると、保治はその顔をそらしました。胸の奥が涙ぐましいような心地でした。
「焼け跡に行ってみたら、分るでしょう。ねえ、いっしょにいらっしゃらない。」
 そう促がされて、保治も漸く行ってみる気になりました。然し、妹と一緒でなく、一人で行くことにしました。
 細川の人々は、厚木の近くに移転していましたし、そちらへは、保治も帰還後すぐに訪れていました。焼け跡はまだそのままになっている筈でありました。
 薄い断雲が空を流れてる暖い日でした。保治はとりとめもない瞑想に耽ってる気持ちで、而もなにか新たなものに立ち向う心構えで、目黒駅からゆっくり足を運びました。
 広い焼け跡のなかに、細川の家の跡は、度々来馴れた場所のこととて、すぐに見当がつきました。ゆるい傾斜地の工合や、すぐ近くのコンクリート塀などが、場所をはっきり指示してくれました。
 それにも拘らず、保治は暫く立ち止りました。
 焼け枯れた木立は、ごく短い切株を残して、すっかり伐り採られていました。瓦礫やトタン板が散らばっていました。大小さまざまな石が、何に使われていたものとも分らず、意外にたくさん転がっていました。そして一面に赤茶けた焦土でした。その全体の面積が、如何に小さかったことでしょう。細川の家と隣家とまた隣家と……それらが其処に建ち並んでいたとは、到底思えないほどでした。それだけの人家が消滅して、後にその僅かな
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