のんびりしていました。
そういう閑暇な生活は、四十歳を越した彼には全く新奇なものでした。その上、新帰国者の彼にとっては、環境もすべて新奇に感ぜられました。敗戦後の政治や思潮や風俗の変転などは言うまでもなく、空襲による東京の変貌は想像以上のものがありました。
彼が落着いた本郷の一隅は、もう町ではなくて完全に村落でした。四方とも広々とした焼け跡で、処々に小さな家が建ってはいるものの、大体は小さく区切られて耕作され、麦の葉が風にそよぎ、豆類の花が咲き、雑草が伸びていました。その青野の彼方に、走る電車の窓や道行く人の姿が見えました。朝早く湯屋に行く時など、近道をすれば、路傍の葉露に足が濡れました。
この村落風景が、初めは異様に感ぜられましたが、馴れるにつれて、それはもう都会の廃墟とは思えず、田園そのものとして楽しまれました。彼の生れ故郷が東京市でありましたならば、そしてもろもろの市街情趣が彼の幼時の生活に刻みこまれていましたならば、彼は容易くは惨害を忘れ得なかったでありましょう。だが、彼は群馬県の農村で幼時を育ちました。その幼時の思い出が、焼け跡の野原を楽しませてくれるのでした。
崖の
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