。少しく受け口の下唇が、へんにたるんで、その右角が垂れさがり気味でした。じっと物を見る時には、左の眼が少しく持ちあがって細くなりました。それだけの特長ですが、その中に、女性的なやさしさとかふくよかさとか柔かさとか、そういうものを越えて、大袈裟に言えば白痴美とも言えるようなものが湛えられていました。この一種の白痴美が、彼女とお千代さんとを繋ぐ鍵でありまして、お千代さんは彼女のような女であったに違いないし、また彼女はお千代さんの再現ででもあろうかと、なんとなく、岸本省平にはそう思われるのでした。そしてまた、この焼け残りの人家の聚落と焼け跡の貧しい耕作地との中から、静かに立ち現われてくる女があるとしたら、それは彼女のような者であらねばならないし、他の種類の者であってはならないと、そのようにも思われるのでした。つまり、理知的な或は現代的な女ではなく、一種の白痴美を持っている彼女こそ、まさにその処を得てるのでした。
 岸本省平が彼女の方へ眼と心を惹かれはじめたのは、いつどこでだったか定かでありません。彼自ら気がついてみると、彼女を方々で見かけたようでした。町角や都電停留場や店先や焼け跡の木蔭でなどで、或はその瞼の大きなふくらみを眺め、或はその下唇のたるみを眺め、或はその左の眼が物を見つめて細くなるのを眺め、或はその皮膚の薄い滑かさを眺めました。そしてそれが一つにまとまって、没理性的な美しさとして心に残りますと、もういつしか、彼の方から彼女の姿を探し求めるようになっていました。
 会社へ通勤のための日暮里駅までの彼の往復が、あちこち道筋を変えたり、散歩のように楽しかったりするのも、彼女がその主な原因だったかも知れません。
 彼女はたいてい、簡単服だったり、浴衣がけだったり、買物袋をぶらさげていたり、すりきれた下駄をはいていたりして、みなりは粗末でしたが、粗末なだけで汚れは留めず、どこか清楚な趣きがありました。そして顔には薄すらと化粧をし、髪はきれいにとかしていました。岸本省平に眼をとめて、じっと眺めることがありました。或は、くるりと背を向けることもありました。或は、それとなく頭を傾げて会釈することもありました。だが一度も彼女は、笑顔を見せず、微笑の影さえ示しませんでした。
 嘗ての空襲の折、この界隈には、焼夷弾も落ち爆弾も落ちました。その爆弾にやられた小さな洋風建築が一つ、高い崖の上に崩れ残っていました。壁は半ば落ち、鉄骨は傾いていました。それを、三四人の男が、至極のんびりと取り壊していました。鉄骨によじ登って壁土を槌で叩き落したり、あちこちにロープをかけ渡したりしていました。遠く崖下から眺めると、少しも危険らしさは感ぜられず、ただぎらぎらした日の光りの中での遊びに似ていました。崖下の道路の木蔭に、誰か一人の通行人が立ち止ったのをきっかけに、次第に見物人がふえました。岸本省平もその中にいました。
 彼のそばに、いつやって来たのか、彼女が立っていました。じっと立ったまま、崖上の作業を眺めていました。作業は白日の中の幻影のようでした。鉄骨の頂上に登ってる男が槌を振う度に、しばらく間を置いて音響が聞こえてきました。突然、男の姿が消えて、大きな塊りが鉄骨からなだれ落ちました。濛々たる土煙があがりました。その土煙が薄らいでゆくと、細い鉄骨だけが残り、そこに男の姿がまた現われて、鉄骨の上を綱渡りをはじめました……。流れ雲が影を落して過ぎました。
 彼女は岸本にぴったり身を寄せていました。
「何をしているのでしょう。」
 張りのある低い声でした。
「あれを壊すつもりでしょうが……あんなことでは……。」
 言いかけて岸本は、今の場合、その答えの間抜けさを感じました。
「まるで、奇術の練習みたいですね。」
 彼女は返事をせず、ちょっと首を傾げてから、突然、彼の方にくるりと向き直って、その顔をじっと眺めました。左の眼が少し持ちあがって細くなり、垂れぎみの下唇がそのまま引きしまり、その全体の表情が、微笑めいて見えました。それから彼女は彼に全く無関心なように、何の会釈もなく歩き去ってゆきました。
 その後ろ姿を見送って、岸本は、全然見当のつかないものにぶつかった気がしました。
 然し、そういうことは、彼をますます彼女に惹きつけました。
 その後、彼は彼女の住居をも探り出しました。時間によって人通りが多かったりひどく少くなったりする街路から、ちょっと路地をはいったところで、平尾正助という表札の下に、小さく、小泉美津枝という表札が出ていました。然し、この女名前が果して彼女のであるかどうか、そこまで探索することはさすがに為しかねました。

 七月にはいって、急激に暑気が増しました。その暑い日の午後、込み合った省線電車の中に、岸本省平は彼女を見出しました。いつものような
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