は今も、お千代さんの話は少しも覚えていませんが、蝉の声ははっきり覚えていますし、その小柄な体の透き通った翅までよく覚えています。あの時彼は、蝉を捕えて外に助けましたが、その機会に、お千代さんから遁れるようにして、酔った勢いで闇夜を走って家に帰りました。
 その時のことが、事実だったのか夢だったのか、分らない気持ちに岸本はなりました。酒の酔いはまだ浅いのに、気持ちだけはなにか夢幻的に深まってゆきました。
 その深みに、彼はすっかり落着いて、美津枝に対しては幼な馴染みのような親しみを覚えました。昔のことはとにかく……それから後どうしているかと、ぽつりぽつり、話が進んでゆきました。――彼女は浅草で空襲に逢い、良人やその両親を失い、自分も危く死ぬところでしたが、不思議に怪我一つしないで助かり、今は知人の家に間借りして、兵隊として南方に行ったまま消息不明な弟を待っていると、だいたいそのような境涯らしいようでした。もっとも、それとて、彼女の曖昧な言葉を種に、酔った岸本が想像したことで、真偽のほどは分りかねます。
「墓地のあの銀杏の木と、ちょうど同じ大きさの木がありました。そのまわりを、火がぐるぐる廻って追っかけてきました。わたしもぐるぐる廻って逃げました。鬼ごっこのようでした。そして物に躓いて倒れて、つかまったかと思いましたら、火はもう消えておりました。」
 岸本は楽しそうに笑いました。彼女は笑いはしませんでしたが、やはり楽しそうでした。
 岸本は大陸の話をしました。おもに虫や動物のことを話しました。人間のことは殆んど彼女の興味を惹かないようでありました。
 酒もあき、僅かな鮨をたべ、蚊帳の中に寝ました。
 酔った岸本が記憶しています限りでは、彼女は殆んど性的衝動を示さず、何等の積極的態度にも出ませんでした。それと共に、全く羞恥の念もないかのようでした。謂わば、娼婦からその閨房の技巧を全く取り去ったような工合に、真白な体を彼に委ねました。或は彼女は酔いつぶれていたのでしょうか。
 岸本がふと眼をさますと、彼女は背を向けて寝ていました。蚊帳越しの淡い光りに、彼はじっと、彼女の頸から肩のあたりの白い肉体を眺めました。カールを外巻きにした黒髪から、寝間着の襟のずり落ちてるところまで、その裸の肉体は、骨は軟骨でもあろうかと思われるまでに、ただ滑らかな曲線と凹凸を画いて、自然の重みに放置されていました。薄い細やかな皮膚がその肉附に融けこんで、餅の表面をでも見る感じでした。それはもう、彼女小泉美津枝のものではなく、ましてや彼岸本省平のものでもなく、なにか人間から離れた物質でした。それが、彼にとって何の関係がありましょう。先刻彼がかき抱いた彼女と、何の関係がありましょう。新奇な遠い物質で、それが白く温く柔かなだけに却って不気味でもありました。
 岸本はなにか蠱毒された心地で、すっかり眼をさましてしまいました。蚊帳がゆらいで、ばたばた音がしていました。白い粉がかすかに散っていました。頭をもたげて見ると、真白な大きな蛾、掌よりも大きな白蛾が、蚊帳にとまりかねて羽ばたいていました。拇指ほどもある大きな腹部の重さをかかえて、しきりに羽ばたいていました。その純白な大きな四枚の翅は、美しいというよりは奇異でした。
 それを岸本はじっと眺めていました。すると、眠っていた筈の美津枝が、静かに上半身を起して、寝間着を片方の肩からずり落したまま、白い蛾を見つめました。その頬は蝋のようで、体には息使いの動きさえないようでした。彼女は長い間蛾を見つめて、やがて蚊帳から出ました。そしてもう蛾の方は見向きもせず、ゆっくりと、着物をつけはじめました。
 岸本は驚いて、彼女の手を捉えました。
「どうしたんです。」
 彼女はじっと彼を眺めて、頭を振りました。
「もう帰りましょう。」
 水の中のような、然し抗し難いものを秘めてるような、そういう声音と岸本には感ぜられました。
 彼の言葉には、彼女はそれきり返事をしませんでした。そして、今晩は帰るとしてもよいが、一週間後にまた逢って下さるかと、彼が哀願するように言いましたのに対して、彼女は返事のためか自分自身に言いきかすのか分らぬしぐさで、二度ほどゆっくり頷いてみせました。
 時計を見ると、十一時になっていました。白い蛾はもうどこかへ行っていて見えませんでした。

 岸本省平の胸のうちに、彼自身でも意外なほど、美津枝に対する愛情が燃えあがってきました。彼は彼女に逢いたくて、会社への往復に、彼女の住所の附近をぶらつきましたが、彼女の姿は更に見つかりませんでした。
 そして一過間後の午後三時前に、彼は約束の五重塔のところへ行きました。曇り空の蒸し暑い日でした。然しそこに彼女は姿を見せませんでした。桜の並木の間や、墓地の銀杏の木のほとりまで、彼は
前へ 次へ
全6ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング