下の池は、大きな蓄水池とも見做されました。そこには、鯉や鮒や鮠などがたくさん泳いでいる筈でした。たとい下水のそれであろうとも、小さな水の流れは小川とも見做されて、鯰や泥鰌が水草の間にひそんでいる筈でした。雑草の茂みは、灌木のそれに同じで、その下蔭には小鳥が巣くっている筈でした。数本の大木は鎮守の森で、そこには苔生した神社がある筈でした。木立が一列に並んでいる所には、たいてい深い河があって、堰の水音がしている筈でした。そして彼方、藪の向うに、大きな河の堤防があって、それを少し下流へ行ったところに、長い橋がかかっており、橋のたもとに、一軒の飲食店がありました。そこに、お千代さんという美しいひとがいて、彼がまだ中学生の頃、町の盆踊りを見に行った帰りの夜、どうしたわけか、店の二階の小さな室で、二人きり、酒を飲んで酔ったことがありました……。
 そのような思い出を、彼、岸本省平が焼け跡のけちな耕作地の中に見出したのは、何故だかよく分りません。実際のところ、彼の思い出に最も大切な河川などは、焼け跡には一つもありませんでした。彼が散歩のように楽しんで往復する日暮里駅までの間には、市街電車が走っている谷間に、昔は、田端から不忍池へ流れる小川がありましたが、それはすっかり地下の暗渠となっております。その他に細流の痕跡さえもありません。河の堤防などは似寄りのものもなく、彼方の高台は広い谷中の墓地で、田舎に見られない五重塔が聳えています。
 然し、人の感情の動きは、山川草木に関するものではなく、やはり人間に関するものでありましょうか。谷間の暗渠の蓋を取り去ったならば、そこに昔の小川が出現してくるであろうかと思われるような、妙なことが、実は起っていたのです。一言でいいますれば、街々の被覆が取り去られた焼け跡に、あの橋のたもとのお千代さんが出現していました。
 お千代さんについて、岸本省平は、その人柄の漠然たる感じを記憶してるだけで、顔立などはすっかり忘れてしまっていました。そのお千代さんが今、そっくり蘇ってきたのです。お千代さんはあの頃三十歳あまりだったでしょうか。蘇った彼女も同じ年頃でした。普通の瓜実顔にすっきり伸びた頸筋、皮膚は薄くて滑かそうで体は中肉中背といったところでした。ただ、みごとな丸みを持った眉とくっきり長く切れた眼との間が、へんにまのびして、瞼のふくらみが大きく目立ちました
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