されていました。薄い細やかな皮膚がその肉附に融けこんで、餅の表面をでも見る感じでした。それはもう、彼女小泉美津枝のものではなく、ましてや彼岸本省平のものでもなく、なにか人間から離れた物質でした。それが、彼にとって何の関係がありましょう。先刻彼がかき抱いた彼女と、何の関係がありましょう。新奇な遠い物質で、それが白く温く柔かなだけに却って不気味でもありました。
岸本はなにか蠱毒された心地で、すっかり眼をさましてしまいました。蚊帳がゆらいで、ばたばた音がしていました。白い粉がかすかに散っていました。頭をもたげて見ると、真白な大きな蛾、掌よりも大きな白蛾が、蚊帳にとまりかねて羽ばたいていました。拇指ほどもある大きな腹部の重さをかかえて、しきりに羽ばたいていました。その純白な大きな四枚の翅は、美しいというよりは奇異でした。
それを岸本はじっと眺めていました。すると、眠っていた筈の美津枝が、静かに上半身を起して、寝間着を片方の肩からずり落したまま、白い蛾を見つめました。その頬は蝋のようで、体には息使いの動きさえないようでした。彼女は長い間蛾を見つめて、やがて蚊帳から出ました。そしてもう蛾の方は見向きもせず、ゆっくりと、着物をつけはじめました。
岸本は驚いて、彼女の手を捉えました。
「どうしたんです。」
彼女はじっと彼を眺めて、頭を振りました。
「もう帰りましょう。」
水の中のような、然し抗し難いものを秘めてるような、そういう声音と岸本には感ぜられました。
彼の言葉には、彼女はそれきり返事をしませんでした。そして、今晩は帰るとしてもよいが、一週間後にまた逢って下さるかと、彼が哀願するように言いましたのに対して、彼女は返事のためか自分自身に言いきかすのか分らぬしぐさで、二度ほどゆっくり頷いてみせました。
時計を見ると、十一時になっていました。白い蛾はもうどこかへ行っていて見えませんでした。
岸本省平の胸のうちに、彼自身でも意外なほど、美津枝に対する愛情が燃えあがってきました。彼は彼女に逢いたくて、会社への往復に、彼女の住所の附近をぶらつきましたが、彼女の姿は更に見つかりませんでした。
そして一過間後の午後三時前に、彼は約束の五重塔のところへ行きました。曇り空の蒸し暑い日でした。然しそこに彼女は姿を見せませんでした。桜の並木の間や、墓地の銀杏の木のほとりまで、彼は
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