間に、明快な問答がなされました。――「軸物の類は、お待ちではありませんか。」「ありませんね。」――「なにかほかに、書画骨董の類は……。」「ありませんね。」――「何かありませんか。」「僕の家には、不用な物は一つもありませんよ。」――この最後の言葉を、チビは、ひどく感心していましたが、それも、正夫のところの中根のおばさんに云わせると、不用な物が一つもないというのは、趣味がないことであり、趣味がないのは、人間としての、一つの欠点となるのだそうです。
 そういう芝田さんの家のことです。駒井さんの室だって、中根のおばさんの室みたいに、いろんな物がごたごた並べたて飾りたててはありません。
 それでも、駒井さんの室にはいると、正夫は、柔かな芳香に包まれるような気持がします。正夫は駒井さんが好きなんです。ちっとも瞬きをしないような眼と、弾力性のある口付と、顔を埋めたら息がつまりそうな胸とが、とても好きなんです。
 今日は、その眼がおちくぼんでおり、その唇が乾いており、その胸が堅くなっています。
「病気ですか。」と正夫はやっとのことで云いました。
 お茶をついでいた駒井さんは、「え?」と声をだして、顔をあげましたが、正夫の云った意味が分ると、「いいえ、」と頭を振りました。そして、ふいに、ちらと光が眼に浮いてきました。涙ぐんだのでしょうか。下を向いてた正夫は、上目で、それを見てしまいました。
 ――なにか、心配なことがあるのだろう。
 そう思うと、もう口が利けないんです。
 駒井さんも黙っています。黙ったまま、お茶やお菓子をすすめてくれます。
 正夫は次第に、不安とも不満ともつかない気持になって、投げだすように云いました。
「おじさんはどうしたんでしょう。わざわざ電話をくれといて……。」
「電話……あなたに……いつ……?」
「今朝《けさ》だって。中根のおばさんと、ほかの用かも知れないけれど、話をして、その時、お午《ひる》すぎには帰ってるから、ゆっくり遊びに来るようにって、僕にことづけがあったそうです。」
「そう。どうなすったんでしょうね。」
 駒井さんも、なにか、芝田さんの帰りを待ってるようなんです。もう五時すぎになっています。駒井さんはしばらく考えていましたが、ふいに別なことを云いだしました。
「あなたは、何の花がいちばんお好きなの。」
 だしぬけの問いなので、正夫はちょっと返事に困りました。
 そこへ、来客でした。年とった女のひとで、御主人が不在なら、どなたかお留守の人に……とそう女中の取次です。
「待ってて下さいよ。」と駒井さんは正夫に云いました。「あとで、お話があるから。先生も、じきにお帰りになりますよ。」
 そして駒井さんは、女中から受取った名刺を手に持ったまま、出て行きました。

 正夫はそこに寝そべりました。駒井さんが出してくれた二三冊の書物も、手にとりません。なんだかつまらないんです。
「なにをしてるんだい。」
 囁くような声で、チビがひょっこり出てきました。
 正夫は黙っていました。
「いいことがあるよ。今晩、うまい果物がたくさん食べられるよ。女のひとが来たろう。あの人が持って来てるんだよ。」
「誰のところへさ。」
「もちろん、おじさんとこへだ。けれど、君が食べていいのさ。就職運動のお遣物なんだ。」
「そんなもの、受取っちゃいけないんだろう。」
「ばかだな。君のおじさんは、そんなちっぽけな量見じゃないんだ。持って来た物なら、何でも受取るよ。そこはおっとり出来てる。僕は好きさ。だが……。」
 チビは耳をかきました。
「なんだい。」
「実は、就職運動なんかより、もっと大変なことを待ち受けていたんだが……さっき、そら、表の木の上でね……。」
 それが、へんに不吉に響きます。正夫は身をのりだしました。チビは得意げに眼をぱちくりさして、そして話しました。
 芝田さんが、表面は調査課長として、内実は幹部の一人として関係してる、某塗料株式会社があります。以前のことですが、ここでも、芝田さんらしい話題が残っています。この会社の株券が、百株ほどまとまって売物に出た時、芝田さんは借金をしてそれを買い取りました。そして後に、社員多数の会合の席で公言しました。「僕は本社の株を百株買うことによって、七千円余りの借金が出来た。然し、社の株券はなるべく社員が所有すべしという原則に忠実であることによって、それを自ら誇りとしている。云々。」――そういうことは、変った人だという印象を与える以外の効果はありませんでしたし、社内に勢力を得ることにはなりませんでした。然し芝田さんの真意がどういうところにあったかは、誰にも分りません。その上、芝田さんは実際、変った人でした。一方では、塗料会社の調査課長でありますが、他方では、芝田理一郎といえば、相当有名な評論家であります。
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