ことには、雨はもうやんでおり、書生の丹野もいつしか戻ってきて、自分の室で勉強していました。
 芝田さんは、少し雨に濡れていました。坐る時によろけかかって、食卓にがっくりもたれました。酒にでも酔ってるのでしょうか。そしてへんに眼ばかり光らして、黙っています。
 その芝田さんを、今日に限って、正夫はなんだか恐《こわ》い気持がします。
 正夫の家への電話のことをきいても、芝田さんはぼんやりして、もう忘れてるようなんです。別に用事もなかったのでしょう。晩の御馳走のことをきくと、その残りの料理を出さして、酒をのみだしました。駒井さんが、金子さんからの果物籠をもちだすと、すぐにその包み紙をといて、うまそうなのを物色しだしました。そして金子さんの就職のことを、駒井さんが繰返し頼むのに、ただ気のないうなずき方をしてるばかりです。それから黙ったまま、何の話もせず、眉根を心持ちよせて、駒井さんや正夫や女中の方をじろじろ見ています。
 いつものおっとりした芝田さんとは、少しちがっています。その半白の濃い髪と、肉附の多い口元が、人を威圧するようです。
「康平の奴、ひどいことを云いやがって、ひとを動物的だと……。」そう呟いて、うふふと含み笑いをしています。
 ほんとに酔ってるのでしょうか。
 その時、女中が、お召物がぬれていますからおかえなすっては、と注意をすると、芝田さんは返事はせず、でも素直に、次の室に立っていきました。
 駒井さんはじっと、石のように坐ったきりです。
 正夫は立上って、庭に出て、大きく息をしました。豪雨の後のまっ暗な空が、ひどく深々と思われます。

「正夫君、芝田さんは少しへんだろう。」
 まっ暗な中から声がしました。チビの奴です。
「知らないよ。」と正夫は云いました。
「知らないというのは、知ってる証拠か。」
「ばか。」
「僕にもどうやら、手におえなくなってきた。すっかり見当ちがいだ。」
「いつもちがってるじゃないか。」
「そうでもないさ。隠しておいたが、どうだい、すっかり話してやろうか。」
 正夫は返事をしませんでした。けれど、返事がないのは承諾のしるしでしょうか。正夫はそこの、形ばかりの粗末な亭のベンチに、腰をおろしました。
 そしてチビが話した事柄は、ひどく複雑なようでもありまた簡単なようでもあって、正夫にはよく腑におちませんでしたが、要するに――
 芝田さんの現在の家屋は、一番と二番と二重の負債担保物件になっています。二番担保の方は、金貸業者の常見からの三千円で、可なり悪質のものです。その延滞がちな利息を、駒井菊子さんが使者になって、時折届けてるうちに、先方では次第に元金返済の督促まできびしくなり、一応、ゆっくり逢って話をつけようということになりました。駒井さんにも立合って頂きたいとのことでした。そこで芝田さんは、駒井さんを連れて、さる料理屋に出かけました。先方からは常見と、やはり立合人として、常見の親戚にあたる者で、或る証券会社の社員をしてる、並河という男が来ました。話は至極穏かで、飲食の間にいろんな世間話が出て、芝田さんはいい気持そうに酔いました。それが昨日のことです。
「そんな時に酔うなんて、芝田さんらしくて、愉快じゃないか。」とチビは感心しています。
 ところが今朝早く、常見からの速達郵便が届いて、昨夜一晩寝て考えた上のことだが、期限はお待ちするけれど、ついては確実な保証人を一人たてて貰いたく、さもなくば止むを得ざる手続きを取ると、威嚇的な文句なのです。何しろ昨晩は酒の上のことで、はっきりした談合もしていないこととて、芝田さんは慌てて、電話をかけましたが、更に要領を得ません。そこで芝田さんは、先方の家まで出かけて行きました。常見は鄭重にそして冷淡に、手紙と同じことを繰返すばかりです。それから話の合間に、さも内証事らしく声をひそめて、実は並河が、後妻にだが駒井さんをほしがっているし、この縁談をおまとめになりませんかと、そそのかします。この縁談がまとまれば、お貸ししてる金額くらい、いやそれ以上、並河に出させます。並河の執心は深いもので、既に昨晩、それとなく駒井さんに当ってみたらしいですよ。なんかと、薄ら笑いをしています。芝田さんは呆気にとられました。
 芝田さんは呆気にとられて、それから途方にくれて、弟の康平さんの事務所をぼんやり訪ねていきました。康平さんは弁護士で、これまで何度か迷惑をかけてるのですが、またのこのこやっていったのです。そして、困ったことが出来たよと、でも呑気らしい調子で、常見とのことを話しました。
 ところが、ここでもまた、芝田さんは呆気にとられました。康平さんは、一言も口を挾まずに、しまいまで黙って聞いていましたが、最後に、それは真実ですかと尋ねました。少しも嘘はないと芝田さんは答えました。それが
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