なにしろ芝田さんは相当知名の士です。両派から目をつけられています。そして呑気な芝田さんは、先に底をわって相談しかけた方へなびきそうです。両派とも、ひそかに芝田さんを口説きに、自宅へ来そうな気配になっているのです。それにまた、会社に対して金銭上の不正が芝田さんにありそうだとの、つけめもあります。だがこれはどうもはっきりしません。
「僕にもよく分らないんだ。」とチビは云いました。
ぷつっととぎれたチビの話は、ただ表面上のことだけで、而も整理されたり云い落されたりしてる点が、だいぶあるようです。本当はもっと複雑なものなんでしょう。
「それきりかい。」と正夫はききました。
「これまではいいんだよ。これから先が、僕には気にいらないんだ。」
チビが気にいらないと云うことは、いつも、へんに曖昧模糊とした事柄ばかりです。こんどもそうです――
芝田さんはその夕方、銀座を歩いていました。知人の文学者に出逢いました。そして一緒に、酒をのみました。文学のことや社会のことを話しあい、酔がまわってくると、芝田さんは、金貸の常見のことや塗料会社のことを、面白そうに話しました。ばかげた話だね、と文学者は簡単にかたづけました。ばかげた話だね、と芝田さんも簡単にかたづけました。その笑い話のうちに、文学者はふと真面目になって、だが、その娘さんに、そんなことから気を惹かれだしたら困るね、と云いました。そうなんだ、と芝田さんも真顔です。結婚問題だの、奥さんという揶揄だの、そんな下らないことから、彼女を見直すようになったら、危険だからね……。そういう話が続いたのです。そして、彼女の健在のためにと、二人で祝杯をあげました。
「それこそ、ばかげてるじゃないか。」とチビは云います。「文学者って、どうしてああばかげたことばかり、問題にするんだろう。だが、それから先の芝田さんは、一層おかしいんだよ。」
ひどく雨が降って、それがやみかけた頃、芝田さんは文学者と別れました。ふかく考えこんで、裏通りの掘割のふちを、長い間ぶらつきました。それから、自動車をつかまえて、北の方向へ五十銭だけ走れって、そう云うんです。金はまだ持ってるのに、どういうつもりなんでしょう。自動車は走り出しました。そして小川町から聖橋へぬけようとする途中で、芝田さんは急に車をとめさして、降りてしまいました。ニコライ堂の下のところで、広い淋しい薄暗
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