怪しい幻覚が私を囚えた。薄穢い豊満な肉体をしている女中が、そこの障子に姿を写すのを待受けて、一人の色情狂が佇んでいる。それが私自身の姿に乗り移ってきた。私は堪らなく忌わしい怪しい心乱れがして、つと其処を離れて歩き出した。暫くして或る電柱の影から、何とはなしに振返ってみると、先刻の窓からはただ茫とした淡い明るみがさしてるきりで、其処には何の姿も見えなかったが、そうして電柱の影から覗いてる自分自身と、同じ場所に同じ姿で、何かを待伏せしている刑事の影が現われてきて、しきりに私へ乗り移ろうとし初めた。私は喫驚して歩き出した。すると今度は、私と同じように酔っ払って帰り後れた愚かな男の影が、私の身にぴったりとくっついてきた。
 私はもう歩くことも立止ることも出来なくなった。同じ場所を同じ時刻に同じような姿をして、嘗て歩いたろう人影や嘗て佇んだろう人影が、何処からともなく飛び出してきて、私にぴったりくっつこうとする。ただ茫とした捉え難い影で、いずれも、同じようでありながら全然異っている。
 そうして私は、下宿までの僅か四五町の裏通りの中に、一々数えきれないほどの人影を、というより寧ろ、人の気を見た。
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