だった。それで、空気の静かに淀んでいる夜更けの通りを、ふらふらと歩いてゆくと、丁度船の通った後の海上に船足の波が立つと同じく、私の後に空気の波が立って、それを私は誰かの気配だと感じたのだろう。……そう思うと、私はいくらか馬鹿馬鹿しいような安堵を覚えて、余りそれを気にすまいと努め、また実際大して気にもかからなかった。またやって来たな……というくらいの気持でいることが出来た。
所が、その気配の方が段々進歩してきた、と云えば変だが、段々はっきりした形を取ってきた。
或る夜一時頃、私は電車から降りて下宿へ帰っていった。その時私は可成り酔っていた。四五人の友人と馬鹿げた遊びをして、その帰りにまた珈琲店へ立寄ったので、和洋酒混合の雑然とした酔い方をして、頭の中が呆けたように茫っとなって、ただ眼だけに意識の力が集っているという状態だった。それと見て飛び乗った赤電車の中の、粗らな乗客の総毛立ったような顔や、じっと考え込んでいるらしい冷たい顔や、一方にかたまって居眠りしてる四五人の車掌の顔や、天井から下ってる宣伝ビラの赤文字や、窓硝子についている仄白い汚点など、弱々しい薄赤い電燈の光りに輝らされたさまざまの、深夜にふさわしい事物が、頭の奥に残っていて、それでもまだ何か足りない、今に何かやってくる……といったような気持が、寂然とした裏通りを透して見てる眼に集っていた。それに自ら気付いた時私は、また例のものがついて来るぞと思った。途端に、何か人の顔らしいものが、横手の暗がりから私の方を覗き込んできた。おや! と思って眼をやると、もうそれらしいものは消え失せて、垣根の上から覗き出している樫の一枝が、黒々とした影を落してるばかりだった。嚇かすなよ! という気持で四五歩進むと、此度は向うの軒下に、なにやら茫っとした人影が佇んでいる。でも私は、酔ってはいたしそんなことに馴れてもいたので、例の奴が先廻りをしたなというくらいの考えで、平気で歩いて行って、ひょいと見ると、其処には何にもなくて、六七尺ばかりの上の軒下に女中部屋らしい小窓がついていて、この夜更けに雨戸も閉めなく、木格子の中の煤けた障子の紙に、淡く電燈の光りがさしていた。私は一寸足を止めて眺めやった。すると全く思いがけなく、鬢の毛を少しほつらした女の頭が、障子にすーっと影を落して、またすーっと消えた。消えた瞬間に私はぞっと身震いをした。
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