る尖った石塊には、帰り後れた泥酔の人が躓いただろう。或る静かな裏通りには、若い夫婦が手を取り合って散歩しただろう。或る垣根には、肺を病む老人が血を吐いただろう。或る門口には、恵みを受けた放浪者が感謝の涙に咽んだだろう。或る木影には、糊口に窮した失業者が悲憤の拳を握りしめただろう。或る十字街には、争闘者の短刀が閃いただろう。或る石塀には、高笑いをする狂人が唾液を吐きかけただろう。其他数えきれないほどのことを、或る時或る瞬間に或る場所で人は為しただろう。それらのものがみな、この都会の濛気の中に跡を止める。そしてそれが、渦巻き相寄り相集って、さまざまな幽気に凝結し、朧な命を得て浮游する。暴風雨などに逢えば、何処ともなく吹き払われるけれども、静かに空気が淀んで濛気が凝ってくると、ぼんやりとそこいらに立現れ、ふらふらとそこいらを彷徨する。明るい真昼の光りに照らさるれば、いつしか解けて無くなるけれども、薄ら寒く日が蔭ったり、夜の闇が落ちてきたり、すると、また茫と現れてくる。
 その頃私は、晩になると外に出かけて、夜遅くならなければ帰って来られないような習慣……というより寧ろ気分に、陥ってしまっていた。恋に破れて凡てのものの意義を見失い、何をしてもつまらなく、昼間はまだよかったが、夜になると下宿の一室にじっとしてることが出来ずに、家庭を持ってる友人の家や撞球場や碁会所や、または怪しげな旗亭など、兎に角何処かで賑やかな時間を過して、十二時が過ぎなければ、云い換れば、すぐに眠るより外はない時間にならなければ、下宿へ帰ってゆく気になれなかったのである。時には二時三時頃になることも珍しくなかった。
 所が或る夜、変なものに……いや変な気持に出逢ったのである。友人の家で遅くまで花合せをやって、もう一時半頃だったろう、遠くもない下宿の方へ歩いて帰りかけた。空がぼんやり曇った静かな夜で、重く澱んでる凉しい夜気が、まだ勝負のほてりの残ってる頬に、心地よく流れていった。帽子を目深に被り、両手をマントの隠しにつっ込み、ふらふらと足を運びながら、頭の中には、花札のまん円い赤い月や、傘をさした小野道風の姿や、「あかよろし」と書いてある短冊などが、ちらちらと映っていた。それを一つ一つ心で送迎して、何にも気を留めず眼をやらずに、通り馴れた途筋を、電車通りから淋しい横町へ切れ込んでいった。それからまた右へ曲っ
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