大倹約をしなければならないと、冗談のように女中達へ云いながら、心ではびくびくしながら、私はその晩すぐに荷物を運び移して貰った。そして一通りざっと片付けておいて、それでももう十二時近くなって、狭苦しい思いで床にはいった。眼が冴えて眠れなかった。どうしても落付けなかった。誰も知らないが、また知っていても知らない顔をしてるが、あの室にだってあんな恐ろしいことがあったとすれば、この室にだってどんなことがあったかも知れない……などと考えてくると、益々眼が冴えていった。
そして私は、またいろんな幻を見た。嘗てこの室で起ったろうさまざまなことが、次から次へと現われてきた。貧しい肺病やみの学生が、血反吐《ちへど》をはいてのたうち廻っていた。酒に酔った不良性の男が、美しい女中を引張り込んで獣慾を遂げていた。凶器を手にした盗人が、窓の戸をこじあけて覗き込んでいた。其他さまざまの人の姿が、湿気を帯びた黴臭い室の空気の中に、茫とした気配に浮出して、四方から私の方を覗き込んでき、私の身体にとっつこうとする。私は首と手足とを縮こめて、蒲団の中に円くなり、もう寝返りをするのも恐ろしくて、じっと夜明けを待ちながら、自分の呼気で自分を中毒さして眠ろうと努めた。
そして翌日になったが、いつまでも日の光がさして来なかった。陰欝などんよりとした曇り日らしい明るみが、窓の雨戸の隙間から忍び込んでいたけれど、いつまで待っても同じ茫とした明るみだった。私は思い切って起き上ってみた。驚いたことにはもう十時を過ぎていた。顔を洗って冷たい食事を済したが、北に窓がついてるきりの室の中には、隅々に薄暗い影が漂っていて、何かぼんやりつっ立ってるような気配だった。私はじっとしてることが出来ずに、何処という当もなく、外出しかけた。お上さんが玄関へ出て来て、どうでしたかというような眼付を見せたが、私は眼を外らして答えないで、ぷいと表に飛び出した。
雲ともいえない靄みたいなものが、空低く一面に蔽い被さっていて、空気が重くどんよりと淀んでいた。寂しい裏通りのそこいらの影から、彼奴らがふらふらと浮び出てくるのに、最もふさわしい天気だった。私は薄ら寒いおののきを身内に感じながら、何処へ行こうかと思い惑った。
こんな時には、酒でも飲んで気を紛らすのが一番よかった。然しそれには時間も早かったし、また恐ろしい記憶が頭に蘇ってきた。彼奴
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