、床の間にはやはり呉竹の軸が掛っており、上の落掛は白々と柾目を見せていた。その平素通りな有様が、却て妙に心をそそって、私は頭から布団を被ってしまった。長く寝つかれなくて、布団の中で幾度も寝返りをした。
翌朝遅く、朝日の光がぱっとさしてる頃に、私は眼を覚して起上った。夢のことはもう遠くへ置き忘れて、平気で朝食を済してから、晴々とした日の光がさしてるうちにと思って、気の向く方へ出歩いてみた。一寸球を突いて、午後は賑やかな大通を歩き廻り、帰りに友人の家へ寄って碁を始め、夕食の馳走にまでなったが、帰り途のことが気になり出して、まだ暮れて間もない慌しい街路を、怪しい幽気にも出逢わず、無事に下宿の室まで帰ってきた。そこでほっとして煙草を吹かしたが、私は飛び上らんばかりに驚いた。
煙草の煙がふうわりと立昇って、ゆらゆらと消えてゆくあたりに、あるかなきかの濛気が、人の姿となって、床の間の落掛から下っている。びっくりして見上げるはずみに、昨夜の夢をまざまざと思い起した。そして気がついてみると、自分の倚ってる机も火鉢の火箸も、夢の中の机や火鉢とそっくり同じものだった。ただ麻縄がないだけだったが、それも窓の外の手摺に雨曝しとなって掛ってるのを、いつか見たような気がし初めてきた。わざわざ雨戸を開けて見定めるだけの勇気も、もう私には出なかった。それどころではなかった。頭の上の落掛からぶらりと死体が下ってきた。眼をやると消え失せるが、一寸でも眼を離すとまた下ってくる。私は怪しい気持になって、比較的新しい落掛をいつまでも見つめていた。するといつのまにか自分がふらふらと立上って、其処の壁に穴をあけ、麻縄で輪を拵え、机を踏台にしてぶら下る……と思っただけでぞっとして、それが却て一種の衝動となり、蜘蛛の糸ででも縛られるように、身動きが出来なくなった。少しでも身を動かしたら、私はそこにぶら下るかも知れない……と思うせいか、もうぼんやりと落掛の所から、人の下ってる無惨な姿が見えてくる。
私は堪らなくなって、いきなり室から飛び出て、階段を駆け下りていったが、さてどうしようかと思い惑ってると、お上《かみ》さんのでっぷりした没表情な顔付が、玄関わきの障子の腰硝子から覗いていた。私はその方へ歩み寄って、前後の考えもなく尋ねかけた。
「あの室は……私の室は……何か変なことがありはしませんか。」
私の様子が変
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