、形体を離れた影の気となって、何と無数に迷い出してることだろう!
 私は漸くにして下宿の前まで辿りつき、硝子戸を引開けて垂布をくぐって、慴え惑った眼付をほっとした気持ちで定めると、例の大きな掛時計が、悠長に長い振子を振っていた。それを見ると、もう自分の城廓の中に戻ったという気がして、安堵の吐息をつくことが出来た。
 それまでは、まだよかったが……。或る日私は、妙に肌寒い薄曇りの午後三時半頃、朝からの球突に疲れて、懐手をしながら帰って来た。下宿まで二三十間ばかりの処へ来ると、その自分の下宿の門口に、ぼんやりつっ立ってる若い男の姿が見えた。変な奴だな、と私が思うと同時に、向うでも私の方に気付いたのか、ふらりと門口を離れて、私の方へ歩いてきた。そして一二分の後に、私はその男と擦れ違ったが……ぞっと身体中が寒くなった。不思議なことには、その男の顔付も服装も何一つ私の眼には留っていず、その足音一つ私の耳にはいっていないで、まるで風のような男だと、擦れ違う瞬間に気付いたので、すぐ振向いて眺めたが、その男の姿は何処にもなく、人影一つ見えない静かな通りが、午後の薄明るみを白々と湛えて、向うの角まで一目に見渡された。私は吃驚して、その気持がまだ静まらないままに足を早めて、下宿の玄関に飛び込むと、途端に、真正面の大時計が、一つぼーんと半時を打った。そのままで、女中一人出迎えず、いつものお上《かみ》さんの顔も見えず、家の中は空家のようにがらんとしていた。変だなと思って佇んだ時、先刻の男の姿がいつのまにか、恐らく擦れ違った時からであろう、私にぴったりとくっついてるのが感じられた。私はぶるっと身震いをして、自分の室に駆け上った。
 そのことが、昼間だけに一層私の気にかかった。昼間から彼奴が玄関まで飛び込んでくる以上は、夜になったらどんなことになるか分らないと、私はもうすっかり慴えきって、それからはなるべく自分の室に閉じ籠ることにした。気のせいだの空気の流れだのと、そんな理屈では安心がなりかねた。後からついてくる気配だけならまだよいが、いろんな姿が影のように四方に浮き出して、私の方へ飛びついてくるのは、どう考えても合点がゆかなかった。私自身の気のせいではなく、そういう煙のような奴等が、そこいらにふらふらと存在してるに違いなかった。
 私は室の中に閉じ籠って、これからどうしたらよいかしらと、夢の
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