。兄さんに行き逢って、兄さんからじっと見られて、珍らしいことには、どうしたのかと尋ねられた。浩一さんと話してたところも見られたにちがいないし、隠すほどのことでもなかったから、私はありのままをうち明け、浩一さんの言葉も伝えた。兄さんの顔になにか烈しい色が走ったが、それきりで、兄さんは黙って向うへ行った。
 兄さんは怒ったのかも知れない。この頃いったいに、たいへん怒りっぽくなった。怒りっぽいくせに、私には殆んど何にも言ってくれない。この二つが私にはつらいのである。兄さんが、中村佳吉さんのように、私に冗談を言ったり、おおっぴらに怒ったり、いろんなことを話してくれたら、私はどんなにか嬉しいだろう。兄さんはいつでも、一人で考えたり怒ったりして、私には何にも話してくれない。小松屋の加代子さんに対しても、兄さんはそうなのかしら。お母さんに対しても、兄さんはそうなのである。川原さんたちを見送りに町まで行く筈だったのに、渡し舟まででやめてしまったのも、兄さんの一人ぎめによるのだった。兄さんはなんにも訳を話してくれなかった。酔ってしまったから、そしてみんな酔っているから、舟までにしておこうと、言いきってしまったのである。
 川原の小父さん小母さんと浩一さんと浩二さんとが、渡し舟に乗って向う岸へ渡るのを、私たちは水ぎわに立って見送った。薄曇りの空で、水面を吹いてくる風は寒かった。私は両袖を胸もとに合せて、なにか大切な思いをかき抱くような気持でいた。まだ小さい頃、両親に連れられて、箱根に旅したり、那須に旅したりした時のことが、ぽつりと思い出された。亡くなったお父さんのことが思い出された。死亡もまた一つの旅ではあるまいか。そうとすれば、お父さんは一人で旅に出てしまわれた。私もお父さんのように、一人きりで旅に出たかった。山や川や海のさまざまな景色が、次から次へと展開してくるだろう。私はその中に溺れてしまい、何もかも、悲しみをさえ、忘れてしまうことだろう。
 私はいつしか涙ぐんでいた。涙はもりあがって、瞼から溢れそうになった。袖口でそっとそれを拭いた。私は涙を兄さんに見られるのが嫌だった。けれどその心配はなかった。兄さんは私たちから少し離れて、河岸をぶらついていた。なにかじっと考えこんでいるようだった。
 兄さんが考えこんでる時は、怒ってるようにも見える。怒ってる時は、考えこんでるようにも見える
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