て、それから北海道へ向うのでした。
 岩田と中村の人たちは、川原一家を町の電車まで見送るつもりでしたが、俄にそれをやめて、渡舟の河岸で別れました。送別のささやかな酒宴のため、老若男女によって多少の差はあれ、誰もみな酔い心地でいました。それが、河岸だけで別れる口実となりました。口実である以上、他に理由があったに違いありません。
 川原一家の者が立ち去ったあと、人々は各自の行動を取りました。岩田元彦は河縁を逍遙しました。岩田芳江は晩の煮物にかかりました。手伝いに来ている小松屋の加代子は、食器類を洗いました。中村佳吉は薪を割りました。彼はなにかしら薪割りに快味を覚えているようでした。岩田八重子は風呂の火を焚きました。
 風呂の火は、どうしたことか、よく燃えないで燻りました。それを煽ぎながら、岩田八重子は涙ぐんでいました。煙が眼にしみるせいばかりでなく、心で泣いているようでした。実際、彼女は悲しい思いをしていました。

 ――私はどうしてこう涙もろくなってしまったのかしら。ちょっとしたことにも涙ぐんでしまう。その涙を人に見せまいとする思いだけで、もう涙が出てくる。こんなではいけないと思うだけでも、やはり涙ぐんでしまう。
 いつぞや、兄さんが板チョコを二枚持って来て、そっと私に下すった。私はお礼の言葉も言えないで、俯向いてしまった。それから、人のいないところで、その一枚をお母さんに上げたが、ろくにお母さんの顔も見ないで、私は俯向いてしまった。眼が熱くうるんできそうだったし、その眼を見られたら、涙が出てきそうな気がしたのだった。板チョコをかじりながら、私は甘い味を楽しむよりも、悲しい思いをした。
 兄さんは時折、それもごく稀にだが、チョコレートだの飴だのピーナツなどを、私に持ってきて下さる。私の方では始終、兄さんのお総菜に気をつけている。だけど、おいしい物はなかなか手にはいらないし、たまに手にはいっても、大勢の人のなかで、兄さんだけに上げるというわけにはゆかない。川原さんにしろ中村さんにしろ、もともと親戚同様の懇意な人たちだから、最も乏しい主食だけは別々でも、お総菜はいっしょに拵えることになっている。だから、兄さんだけを特別扱いにするわけにはゆかない。それでも、私は兄さんになるたけおいしい物を上げたいし、いつも気を配っている。そうしたことが、なにか淋しく悲しいのである。お総菜を
前へ 次へ
全13ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング