敷島を持った片手を車掌にさしつけて、五六人の客が降りるのを堰き止めている、この洋服の男は、極東交易商会に勤めてる野口昌作というのだった。株式会社ではあるが殆んど個人経営とも云ってよい、その小さな商会内で、彼は社長から重用せられてる敏腕家だった。ただ欠点としては、酒の上が悪くて怒りっぽかった。そのために社長からも屡々訓戒されたが、また自分でもその欠点をよく知っていたが、やはり癖は直らなかった。そして此度、商売上の用件旁視察をかねて、アメリカへ社員が一人行くことになったについて、地位から云っても、腕前から云っても、自分がその選に当ることと彼はひそかに期待してた所、社長は彼の酒癖を顧慮して、他の温厚な社員を選んでしまった。その内輪だけの送別会から、彼は今戻り途に在るのだった。
 会へ出かける時彼は、「今晩遅くなるかも知れない。」と細君へ云い置いてきた。その胎の底では、二次会で思うさま飲んでやるつもりだった。所が会が果ててから、誰も二次会を云い出す者がなかったし、彼が首唱しても、賛成する者がなかった。表面には少しも現わさなかったけれど、内々不平の念でしきりに煽った酒が、悪く頭にまわって、何だかじっとしておれなくなった彼は、帰りに二三の同僚を誘って、何処かへぐれ込むつもりだったのに、どうしたことか変に帰り後れて、一人ぽつりと往来に取残されてしまった。そして半ば自棄気味《やけぎみ》に、一人で飲んで騒いでやれと考えて、それでもなお念のために、懐中を一応調べてみると、七八円の金しか残っていなかった。細君がまた例の手段で、紙入の中を勝手に処分したのに違いなかった。彼は眉根をしかめて舌打ちしたが、持ち合せの不足くらいどうにでもなる、懇意な家へ行ってみようと、少し遠いのを我慢して、電車の停留場の方へ歩き出した。その時、思ったより酔ってる足がふらふらとして、前のめりに、いやというほど電柱へぶつかった。パナマの帽子越しに頭ががーんとして、眼の前が暗くなった。もう何もかも嫌になってしまった。何ということもなく方向を変えて、真直に家の方へ帰りかけた。
 所が電車の中で、こんなに早く細君の前へのこのこ帰ってゆく自分自身が、馬鹿げて気の利かない者のように思われ出した。気が利かないと云えば、紙入の中をごまかした細君も、アメリカへ自分をやらない社長も、今日のつまらない送別会も、二次会をしない同僚等も、
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