る時、彼は一寸男の肩へ手をやって、押し加減にしながら云った。
「中の方が空いていますから、中へ願います。」
瞬間に、男はひどく大きな声を立てた。
「馬鹿にするない。ここだって空いてるじゃないか。」
木原藤次は、彼のその威猛高な見幕によりも、事の意外なのに喫驚して、その喫驚した自分の心を立直すために、「お早く願います、」と乗客の方へ云い捨てておいて、運転手への相図の鈴《ベル》の綱をやけに引張った。そして電車が動き出してから、じいっと洋服の男の方へ眼を向けた。酒に酔った赤黒いその横顔が、自分を嘲ってるように思い做された。
「車掌台に乗るのは規則違犯ですから、中の方へお願いします。」
「何が規則違犯だ!」と男はまた怒鳴り返えした。「満員の時は乗せるじゃないか。規則規則って、いやに鹿爪らしいことを云うない。」
そうなると木原藤次は、自分の職務をはっきりと身内に感じてきた。その上、乗降口と反対の方の車掌台に立っている二三人と、車内の吊革にぶら下ってる人々とから、物珍らしげな視線が一時に集ってきた。もうそのまま引込むわけにゆかなかった。
「規則は規則です。」と彼は云った。「中が一杯なら兎に角、中があいてるから、中へはいって下さらなければ困ります。其処に立っていられちゃあ、乗り降りの邪魔になるじゃありませんか。」
「どこが邪魔になるんだ?」と云って洋服の男は一方に身を寄せた。「こうしていりゃあ、いくらでも通れるじゃないか。通ってみろ、さあどこが邪魔になるんだ? 生意気な、人の肩を小突きやがって! 車掌なら車掌らしく、もっとおとなしくしろ。それで車掌の役目が務まると思ってるのか、馬鹿っ!」
そして彼は変に引歪めた顔を、相手の方へ近寄せてきた。
木原藤次は思わず一歩後に退《しざ》った。そして男の様子をじろじろ見調べながら云った。
「不服なら降りて貰いましょう。」
「何だと、もう一度云ってみろ! 何処まで乗ろうと俺の勝手だ。不当に乗車を拒むなら、俺にも考えがある。肩を小突いた上に、降りろとは何だ。少しは人間らしい口を利け。」
木原藤次は顔を外向けて、痩我慢の苦笑を洩らした。相手にとって悪い男だと思ったのである。そしてまだだいぶ間のある次の停留場の名を、声高に呼び上げておいて、こちらを向いてる多くの視線に答える心持で、独り呟いた。
「仕様のない酔っ払いだ。」
それを洋服の男
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