ダムが戸口まで送ってきて、小首をかしげて見送ってくれる眼付を、岸本は背中に感じて、拳をにぎりしめながら、大地を踏み固めるような気持を足先にこめて大股に歩いた。
それから五日目の朝、岸本は下宿屋の電話口に依田氏から呼びだされて、いきなりどなりつけられた。前々日の晩、バー・アサヒへ行って、マダムの平静な顔を見てきたばかりのところなので、一層驚かされたのだった。この頃学校へは行ってるか、というのをきっかけに、バーへばかり入り浸って勉強はどうしたんだ、というのだった。酒に酔っ払って、下らない連中に交って、何もかもべらべら饒舌りたてて、俺も寺井さんもどんなに迷惑してるか分らない。そんなことのために、寺井さんはバーを止めてしまった、というのだった。岸本にはまるで訳が分らなかった。だがそんなことには頓着なく、依田氏の声は引続いていった。酔っ払って夜遅くやってきては、毎晩のように寺井さんの裏口に忍んでくる、あの犬のような男は何だ。俺の家へまで手紙を寄来して、何という恥知らずの男だ。あれが君の友人なのか。君から話があってる筈だというが、一体どういう話だ。それに君は、あの土地の芸者とも知りあいらしいが、そんなに堕落したのか。自分の年齢を幾つだと思っているんだ。心が改まらなければ、郷里の両親へ手紙を出して、早速学校も止めさしてしまう……。とそんなことが、ひどく早口になったり、ゆるくなったり、ぽつりと途切れたりして、岸本の耳に伝わってくるのだった。岸本は呆気にとられて、理解しようとすることよりも、依田氏の手を――肉が厚く皮膚がたるんでいて、棕梠の毛を植えたような大きな手を――ふしぎに眼の前に思い浮べてるのだった。そして言葉が切れると、それは何かの誤解だからこれから伺います、と叫んだのだったが、来るには及ばないと一言のもとにはねつけられて、根性がなおったらそれから来い、弁解の必要はない、とただそれだけで、そして多分はあの小柄な奥さんだろうが側の人と何やら囁く声がして、電話はがちゃりと切れてしまった。
岸本はその十分間ばかりの電話に汗ばんで、それから唖然として、自分の室にいって寝転んだ。あの「若禿」が何か粗忽をしたらしいことは分ったが、自分が何か饒舌りちらしたとか、芸者がどうだとか、そんなことはまるで見当がつかなかった。まさかマダムが嘘をつくわけはなかった。彼は一切のことを依田氏へ手紙を書き送ろうと、その筋途を頭で立て初めたが、そのうちに、はかばかしくなってきた。そう考え出すと、何もかもばかげてきた。ばかげていて訳が分らなかった。一体「東京」そのものが、卑俗で軽佻でばかげていて、そのくせ、何かしらこんぐらかった底知れない不気味なものがあるようで、さっぱり見当がつかないのだった。そして妙に頼りない宙に浮いたような自分自身を見出し、強烈な洋酒の味だけが喉元に残っていて、マダムのことが、丁度少年の頃寺井菊子さんのことを考えたのと同じくらい漠然と、考えまわされるのであった。
三日後に、岸本は学校宛の手紙を受取った。――こんど都合で、バーを止めることになりました。御好意は忘れません。いずれまたお目にかかることもあると存じますが、御身体を大切になさいませ。――とただペン字でそれだけで、所番地もなくTとだけしてあった。岸本はそれを上衣の内隠しにしまって、さて、マダムが依田氏の家に居るだろうとは想像したが、暫く行くのを差控えて、その代りに、バーの方を訪れてみた。戸が閉っていて、貸家札がはってあった。岸本はその前に暫く佇んで、それから、大通りを、明るい方へとやたらに歩いてみるのだった。
底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3[#「3」はローマ数字、1−13−23])」未来社
1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年3月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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