うことを信ずる、「ドラ鈴」とマダムと関係のないことも信ずると、一人で饒舌りちらしてから、あんたはほんとに惚れていないんだねと、またくり返すのである。その度に何度も握手を求めて、それから彼を引張って、バー・アサヒへ逆戻りしてしまった。岸本は酔ってもいたが、何かしら引きずられる真剣なものを彼のうちに感じて、云われる通りに引廻されてしまったのであった。
 バーの中には、土地の若い人たちと、他に二人会社員がいた。「若禿」はまんなかの卓子に坐って、アサヒ・カクテルを三つ、三つだと念を押して、それからふと立上って、蓄音器のところへ行き、しきりにレコードをしらべて、一枚の夜想曲をかけさせ、このバー独特とかいうすっきりしたカクテルが来ると、マダムを呼びよせ、岸本とマダムの手に一杯ずつ持たせて、立上ったのである。
「ええ……小生は、マダムとドラ……依田氏との間の、純潔を信ずるものであります。そしてここに、お目附役の岸本君の立合のもとに、マダムへ結婚を申込むの光栄を有するのであります。」
 そしてぐっと一息に杯を干して、尻もちをつくように椅子に腰を落して、きょとんとしてるのであった。とり残された岸本とマダムとは、杯を手にしたまま眼を見合ったが、その時、一寸緊張したマダムの顔が、花弁のように美しく岸本の眼に映った。岸本は一息に杯を干したが、マダムは唇もつけないで、卓子の上に杯を戻して、もういたずらな笑みを含んだ眼付となっていた。
「まあ。」と卓子をとんと叩いて「ばかばかしいわね。何を二人で、たくらんでいらしたの。」
 それが「若禿」に衝動を与えたらしかった。彼はひょいと頭をあげて、マダムが立去ってゆくのには眼もとめずに、岸本の顔をまじまじと見ていたが、長い手を延して、岸本の手をとって打振りながら、岸本へ向ってではあるが、酔っ払いの独語の調子で饒舌りだすのだった。
「僕は……ねえ君、僕は、たくらみだの、邪推だの、そんなことが、第一性に合わないんだ。だから、君の言葉を信ずる。愛すべき青年よ……愛すべき……彼女よ、マダムよ。彼女は純潔なり。ドラ鈴と、関係などあってたまるものか、僕が保証する。マダムは生活のために奮闘しているんだ。ブールジョア共には分らない。マダムは可愛いい娘のために働いているんだ。依田氏がそれを預って、育てていてやればこそ、マダムは後顧の憂いなく、こうして奮闘しているんだ。ねえ
前へ 次へ
全14ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング