さん、留守をしてすみませんわね。」
急に明るくなったような室の中に、背がすらりと高くて、頬の薄い白粉の下にほんのりと紅潮している。やあ! とみんなが、拍手ででも迎えそうな気配のなかに、岸本は一人逆らって、今小母さんの噂をしてたところだと云ってしまった。そう、いない者はとかく損ね、とそれがまるで無反応なので、岸本は云い続けた。
「小母さんが、あの……依田さんと関係があるとかないとか、そんなことが問題になっちゃって……。」
彼女の眼がちらと光ったようだったが、瞬間に、それはとんだ光栄で、何か奢らなければなるまいと、更に無反応な結果に終ったのであったが、男達の方ではその逆に、へんに白け渡って、岸本の方をじろじろ見やるのだった。岸本は席に戻って、煙草の煙のなかで、考えこんでしまった。そこへ、蓄音器が鳴りだし、それに調子を会して、彼等が敵意的な足音を立て初め、マダムはスタンドの向うに引込んで、何やら書き物をしていた。
そして彼等が出て行くまで、出ていってから後まで、岸本はじっとしていた。するとサチ子がやってきて、面白そうに笑い出したのだった。思いだしたのだ。あんな乱暴をしちゃいけないわ、と云い出した。
「あんな奴は嫌いだ。」と岸本はふいに云った。
「だって、土地の人だから、仕方ないわ。」
十七の娘にしては、ませた口を利いて、彼女は囁くのだった。マダムのことをいろいろ聞く人があるけれど、知らないといって笑ってると、チップを余計くれるんだと。岸本は嫌な気がして立上ると、マダムは向うから、いつもの調子で、晴れやかに笑ってくれるのだった。
岸本は外に出て、息苦しかったのを吐き出すように、大きく吐息をした。
そのことがあってから、岸本は妙に人々から目をつけられてるのを感じたのだった。上野広小路の裏にあるそのバーは、場所のせいか、客には土地の商家の人々が最も多く、会社員は少く、学生は更に少なかったので、学生服のことが多い岸本は、よく目立つ筈だったが、それが逆に無視された形になって、誰の注目も惹かないらしかった。彼の無口な田舎者らしい引込んだ態度も、その一因だったかも知れない。ところが、あのことがあって以来、顔馴染の客は大抵、彼を避けると共に、彼の様子にそれとなく目をつけてるらしいのが、次第にはっきりとしてきた。そうなると彼も意地で、なお屡々通うようになった。別に何というあて
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