父さんの姿がそんな考え方をさせるんですから。」
「それでは二人共変なんですね。」
しげ[#「しげ」に傍点]子はそう云ってまた微笑みを洩らした。然し彼女もそれきり口を噤んで、庭の方を透し見るようにした。
東に面した庭には午後の日脚は軒に遮られて落ちてはいなかったが、それでも暑い日光の漲った空の反映を受けて、植込みの影の空気まで暑苦しく乾燥しているように思えた。木の葉がばさばさしている、植木鉢の土が乾き切っている、そして高地芝の間の飛石が如何にも白い。
「今年は暑そうですね。」と重夫がふと云い出した。
「そうねえ、六月でこんなだから。」
「今年は皆で山へ出かけようではありませんか。」
「私も何処かへ出かけたいと思っていますがね。でも同じ行くなら海の方がよくはありませんか。」
「海は頭が悪くなっていけませんよ。」
「また頭ですか。」そう云ってしげ[#「しげ」に傍点]子は眼を挙げて重夫の顔を見た。「お前さんはいつも頭のことばかり心配していますね。」
「それは僕等のような若い時は、頭が一番大切なんですから。」
その時二階の梯子段に足音がした。父が下りて来るのであった。それをきくと二人共妙に口を噤んでしまった。然しそれは別に父を憚ってではなかった。自然に二人の心がそちらへ引きつけられたからである。
父は重い足どりで歩いて来て二人の所へ顔を現わした。
「お眼覚めですか。」としげ[#「しげ」に傍点]子が云った。
「ああ。」
「今日はわりにお早いんですね。」と重夫が云った。
「それでもぐっすり寝入ってしまった。昼寝はよくそして短く眠るに限るね。」
然し乍ら、田原さんは如何にも陰欝な顔をしていた。濃い眉根から広い額へかけて、彼がいつも怒った時に示すようなかすかな竪皺が寄っていた。そして長く濃い口髯に半ば隠された口元には、意力の欠乏を示す空虚が漂っていた。
「誰も来なかったか。」
「いえどなたもお見えになりません。」
田原さんはその答えをきいて、軽く頭を横に傾げた。それから冷たい水で顔を洗うために勝手許へ行った。
水で顔を洗い、それから頭まで洗ってみると、田原さんは先刻の感情がいつしか消え失せて、頭の中が妙にぼんやりしているのを感じた。然しそれはまだいくらかよかった。
先刻の感情と云うのは、彼が昼寝から覚める時に覚えた感情である。
何か淋しい引入れられるようなものが彼の心にふうわりと被さって来た。それは単なる情緒ではなかった。淋しい佗びしいそして頼り無いようなものが、彼の心の上に煙のようにふうわりと投げかけられたのである。で彼は本能的にそれを脱しようとして眼を開いた。然し彼はまだその時まで半ば眠っていたのである。そして彼が脱しようとしたその寂寥たる或物が、また引き入れるようにして彼の眼瞼を閉じさした。彼は全身|微睡《まどろ》みながら、覚めかかった心をじっと、その或物へ集中した。じっとしているに堪えられないような、それでもじっとしていなければならないような、荒凉たる感じが彼のうちにその時湧いて来た。それは、空虚な柔い擽ったいような苦悩であった。そしてそれに身をうち任していると彼はそよそよと微風が自分の上を流れてゆくのを感じた。その時には彼は再び眼を開いていた。開け放した二階の室から、庭の木立の梢が見える。緑葉がちらちらと動いている。その向うに青い空が在る。空の中にぽつりとち切れた雲が一片浮んでいたが、それがすぐに蒼空の奥に消え去ってしまう。それが如何にも静かである。静かでありながら如何にも雄大な推移である。雄大な推移でありながら如何にも頼り無く佗びしい。雲の消え去った大空から、生温い微風が流れてくる……。
彼は毛布を足先ではねのけて、枕の上に半身を起してみた。それが非常な努力に感じられた。そして両手を伸すと共に、大きく欠伸を一つした。その欠伸が彼にはっきり胸の空虚を感じさした。何かが自分のうちから掴み去られたがようであった。全身の筋肉がぐたりとしていた。それが如何にも静かでそして頼り無かった。その時彼の心のうちに懶い憂欝が濃く澱んで来た。
彼が見たのは、大自然のうちに流るる静かな推移でもなかった。大空の下に置かれた人生の卑小でもなかった。然しあるがままの生の懶さ淋しさであった。それは、「今日もまた暮れた、明日もまた明けるであろう、」という感情と似たものであった。その感情の底にしみ込んでくる在るがままの不満な感じであった。彼はそのうちに浸りながら、「何を為すべき乎」を考えなかった。「何を為すべからざる乎」は猶更考えなかった。ただ「在る」ことを感じていた。それが堪えられないほど佗びしかった。
田原さんは身を起して、二階から下りてゆき、妻と子とに言葉を交わし、それから水で顔と頭とを洗ったのである。すると憂欝な感情は消えたが、その後に
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