……。」
「それは眼敏《めざと》くていらるる故《せい》なんでしょうよ。元からそうでしたよ。それに年を取って来ると猶更そうなるものです。」
「然しまだ四十の上を幾つも越してはいられないじゃありませんか。」
「年齢《とし》を云えばそうですがね、四十の上になると自分では随分長く生きたような気がするものですよ。」
「ですが……そう、つい先達てのことですよ。私が友達と日曜に朝早くから江の島の方へ遊びに行ったことがありましたでしょう。あの朝のことです。五時頃に起き上って、楊枝を使いながら縁側に立っていますと、お父さんがじっと庭の向うに立っていられたのです。後ろから見ると急にひどく髪の毛が薄くなられたような気がして、妙な気持ちがしたのです。が、いつまでもお父さんはじっと向う向きに立っていられます。それがこう妙に空洞《うつろ》な老木の幹を見るような感じがするのです。まだ朝日は射していませんでしたが、あの向うの植込みの下まで透き通るような明るみに夜が明け切っていました。私は何とも云えないような気持ちになって、じっとお父さんの後姿を見ていますと、急に私の方をふり向かれて、『珍らしく早いね。』と云われました。前から私が見て居るのを知っていられたのに違いないんです。皮肉なような妙な笑顔さえ浮べていられたのです。それで私はすっかり狼狽《まごつ》いてしまって、『もう夜が明けてしまったんですね。』と変なことを云ってしまいました。するとお父さんはじっと遠くから私の眼の中を覗くようにして、『そうだ、この頃は四時頃にもう少し明るくなるんだ。お前なんかはそんなことは知らないだろう。』そう云われて、また前の皮肉なような笑顔をされるのです。それから、私が黙っているのを押っ被せるようにして、『早く支度をしないと遅くなるよ』と云われたまま、また向うを向いてしまわれました。私はその時、何だか大変悪いことをしたような気がして、何とも云えなかったのです。実際変な気がしたんです。」
「だってそれは何でもないことではありませんか。」
「ええ別に何でもないことですけれど、それでも……。」
重夫の心のうちには何か「何でもなくないこと」が在ったけれど、それが余りに漠然としているので口に出してははっきり云えなかった。
「だが変だと云えばお前さんも変ですね。」
「なぜです?」
「でも妙な考え方をするではありませんか。」
「然しお
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