わを拾い上げて、それで爺さんの低い鼻を三度あおぎながら、何か口の中で唱えますと、爺さんの鼻はみるみるうちに高くなって、二里四方のものが何でもかぎ分けられるようになりました。爺《じい》さんがびっくりしてるうちに、天狗《てんぐ》は羽うちわをはたはたとやりながら、宙に飛び上がって、どこともなく立ち去りました。
 爺さんは天狗の鼻をもらって、うれしくてたまりませんでした。夜が明けると、すぐに表へ飛び出しました。村の人達は、大天狗と同じような爺さんの鼻を見て、驚いたの何のじゃありません。そして、猩々爺《しょうじょうじい》さんを今度は天狗爺さんと呼ぶようになりました。

      三

 さて天狗爺さんは、大天狗からもらったまっ赤な高い鼻をうごめかして、自分の貧乏な家にじっと坐っていますと、まあどうでしょう。二里四方のものが何でも、眼に見るようにかぎわけられるではありませんか。どこにどんな花が咲いているかもわかれば、どこにどんなごちそうが出来てるかもわかれば、どこにどんな酒があるかもわかります。爺さんは家にじっと我慢《がまん》してることが出来ませんでした。晩になるとのこのこ出かけていって、村で一番ごちそうのある家へやって行きました。村人達はもう天狗が来ないことを知って、いつもより見事なごちそうをこしらえていたのです。
「今晩は」と言って爺さんは入って行きました。
「やあ天狗爺さんですか。あんたのおかげでこんなごちそうを食べることが出来るようになりました。まあお祝いに食べていって下さい」
 そう言って、どの家でも爺さんをもてなしました。
 爺《じい》さんは大得意でした。それからというものは、昼間はいい香りのする花を取りに出かけ、それを売って大変お金をもうけ、晩になると、立派なごちそうやうまい酒のある家をかぎつけて、そこでたらふく飲み食いしました。いくら飲み食いしたって、たかが老人一人ですから、そうたくさんではありませんので、村人達はいつも快《こころよ》くもてなしてくれました。それにまた爺さんは、村から天狗《てんぐ》を追い払った大恩人ですもの。
 そのうちに爺さんは、花を売ったお金はどしどしたまってくるし、ごちそうや酒にはあきてくるし、何だか退屈《たいくつ》でつまらなくなってきました。この上は何か素晴らしいものが、まだ見たことも聞いたこともないようなものが、どこかにありはすまいかと、高い天狗鼻をうごめかしながら、じっと考えていました。
 すると、どこからともなく、さらさらと涼しい風が吹いて来て、その風上の遠くの遠くに、何とも言えないよい香りのするものがありました。麝香《じゃこう》でも肉桂《にっけい》でも伽羅《きゃら》でも蘭奢待《らんじゃたい》でもない。いやそんなものよりもっとよい、えも言われぬ香りでした。
「これはきっと天下第一の宝物に違いない!」と爺さんは思いました。
 爺さんはもう有頂天《うちょうてん》になって、その宝物を取りに出かけました。
 よい香りは、村の後ろの高い山の方から匂《にお》ってきました。爺さんは天狗鼻をうそうそさせながら、山の奥へ奥へと登って行きました。ところが不思議なことには、いくら行ってもそこへ行きつきませんでした。行けば行くほど、香りは遠い所から匂って来ます。
「これはきっと大変な宝に違いない!」と爺さんは考えました。
 そのうちに、山はだんだん奥深くなって、草木がいっぱい茂っていて、もう路《みち》もなくなってしまいました。その上、爺《じい》さんは長い山路《やまじ》を歩いて来ましたので、腹はへってくるし、足は疲れてくるし、弱ってしまいました。けれど、ただ宝物を取るという欲でいっぱいでした。何もかもうち忘れて進んで行きました。
 にわかに、ひときわ強くぷーんといい香りがしてきました。いよいよ来たなと思って、爺さんは一生懸命に足を早めました。そして山奥の崖《がけ》のふちまで来ますと、あっと言って立ち止まりました。
 まあどうでしょう、崖の下の谷間一面に、素敵《すてき》な花が咲き乱れてるではありませんか。十畳敷《じゅうじょうじき》もあろうかと思われるほど大きな百合《ゆり》の形をした花で、そのビロードのような花びらは、赤や青や黄や紫《むらさき》やさまざまの色をして、その上に金色の花粉《かふん》が露《つゆ》のように散りこぼれていて、それをすみきった日の光が、きらきら照らしているのです。そして涼しい風が軽やかに流れるたびに、息もつけないほどのよい香りが、むらむらと立ち昇ってくるのです。あまりのことに、爺さんはぼんやりしてしまいました。
 やがて我に返ると、爺さんは早くその花を折り取ってやりたくなりました。ところが、崖の上からその谷間に下りるのが容易でありません。ごつごつした岩の崖で、何十丈《なんじゅうじょう》というほど高いのです。爺さんはあちらこちら見廻してみて、ようやく一本の葛《かずら》を見つけ出し、それにすがっており始めました。
 ちょうど崖の中ほどまでおりますと、どうしたはずみか、葛がぶつりと切れて、あっと言うまに、爺さんはまっさかさまに転げ落ちました。転げ落ちるとたんに、高い鼻が岩角にぶつかって、ぽきりと大きな音を立てて折れてしまいました。
 爺さんは谷底で夢中に飛び起きて、一番先に鼻へ手をあててみますと、さあ大変です、天狗からもらった大事な大事な鼻どころか、自分の元の低い鼻までも根っこからなくなって、顔がのっぺらぼうになってるではありませんか。あたりを見廻してみますと、今まで咲き乱れていた花は影も形もなくて、自分の足下に、何か赤いものが一つ転がっています。よく見るとそれはまっ赤な高い天狗鼻《てんぐばな》でした。
「まあこれさえあればいい!」
 そう思って爺《じい》さんは、急いで拾おうとしました。すると驚いたことには、その赤い鼻がふわりと宙に飛び上がって、舞い上がりながら次第《しだい》に大きくなって、やがては空いっぱいの大きさになりました。そして爺さんがあっ気にとられていると、その空いっぱいの大きな鼻の向こうから、「あははははは」と雷《かみなり》のような笑い声が聞こえました。
 それはたぶん、天狗が笑ったのだろうということです。



底本:「豊島与志雄童話集」海鳥社
   1990(平成2)年11月27日第1刷発行
入力:kompass
校正:門田裕志、小林繁雄
2006年4月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング