なら、或は多少の学術的研究心を以て、図書館の仕事が出来たなら……と私は幾度思ったか知れない。然し、下《した》っ端《ぱ》の図書館員の仕事はいつも機械的であり、あてがわれるままを甘受する飜訳はいつも機械的であった。それも生活のためだ。だがそのために、生活そのものまで、いつしか機械的になって、やがては油が切れようとしている。――窓から床までの光の角※[#「土へん+壽」、第3水準1−15−67]を、私は珍らしく眼を輝かして眺めた。
汚水の淀んでる掘割と寂しい工場とは、図書館の中の佗びしい空気を私に思わした。そしてそこの河岸縁《かしぶち》で眼前に描き出す彼女の姿は、図書館の中に落ちてる光の角※[#「土へん+壽」、第3水準1−15−67]だった。ただ、太陽の光のではなく、一種の燐光の……。
先輩の好意で或る市立大学に英語教師の職を得て、図書館員をやめることが出来た時、私は生れ変ったように喜んだ。一週に四日、それも自分の受持時間だけ出勤して、月給百五十円余、国許の少しの畑地を管理してる伯父から送ってくる毎月の五十円、それだけで生活は安心だ。これから自由に勉強しよう。自由な飜訳もしよう。物も書こう……。私はまだ著述を断念しかねていた。――妻が娘を連れて、郷里へ実母の病気見舞に帰ったことが、私の気持を更に自由にした。
私は籠から放たれた小鳥のようなものだった。殆んど毎日市内を彷徨した。そして古い停滞した生活の気分を振い落そうとした。七年間の習慣の殼、頭と身体とにたまってる雲脂《ふけ》、薄暗い図書館と陰欝な生活との影、それを一挙に払いのけようとした。退職手当として貰った六百円のうち、百円を妻に送って、残り五百円を七年間の生活の影と共に空中に撒き散らそうとした。古い殼や雲脂や影は、利用すべきものではない。私はその五百円を、自分のためにも他人のためにも、有用に費すことを欲しなかった。その上、図書館生活のためか、或は貧窮な生活のためか、私は甚しい性慾の減退を感じていて、それが今後の新たな生活に対する不安ともなった。私は五百円を懐にして、学生時代に可なり知ってた各種の花柳の巷のうちの、最も人間味の濃い陰惨な方面をさまよった。そして偶然彼女を見出した。
種々の男の息吹《いぶき》がかかってる彼女の肉体、自分の肉体を資本に生きてる彼女の生活、そういう風に抽象的に見た彼女のうちに、不快な五百円を投じ去るのに最も好都合な場所があり、人生の現実の中にふみこむのに最も力強い戸口があった。
狭い入り組んだ小路、小さな硝子の小窓から至る処に覗いてる無数の女の顔、物に憑かれたように飄々とうろついてる多くの男の影、その中にあって、軽い斜視の……近視の……乱視の……彼女の眼は、一種の美を持っていた。
「先《さき》のことは、まるで真暗よ。ここを勤めあげてから……それからどうしようって、当もないの。時々、お客さんが眠ってる間に、夜中に起き上って、眼をつぶって、じっとしてることがあるの、一時間も……。ただ真暗なものを、一心に見つめてるきり……なんにもありゃしないわ。」
壁に軽く背をもたして、唇の先で煙草の煙を吐きながら、そんなことを云う彼女の顔には、どこかつんとした意地っ張りなところがあって、その眼には、鈍い視線の上に光が浮いていた。
彼女は今年二十三、丙午《ひのえうま》の歳だった。
「大変な歳に生れついたもんだね。九族を殺すっていうよ。」
「九族……?」
「親子兄弟、一家眷族を、みんな打負してしまうんだ。」
「そう。やっぱりどこか強いのね。」
他人事《ひとごと》のように彼女は云って、淋しい笑いをした。
私は杯《さかづき》を重ねた。
酒はごくいいのを頼んで、それを二本か三本、つまみ物としてはただ海苔と※[#「魚+昜」、233−下−20]の類、初めから酔ってる時には砂糖水、そして彼女と一時間か二時間、取り留めのない話をした。
それだけで私には充分だった。私は彼女の肉体を漁《あさ》りに来てるのでもなければ、彼女を愛してるのでもなかった。その愛慾の巷で時間を過すことによって、新たな生活の出発の一歩を、実人生に根を下した力強い一歩を、見出そうとしてるのだった。彼女はただ仮りの相手に過ぎなかった。――時によると、表を、新内《しんない》の流《ながし》が通った。ヴァイオリンの俗謡が響いた。夜分は、客を呼ぶ女の声が聞えることもあった。御詠歌をうたって軒毎に報捨を乞う遍路姿の娘の、哀れな鈴の音が鳴ることもあった。
三畳か四畳半の狭い室なので、夜は電燈の光で相当に明るかった。が昼間は大抵、窓に重いカーテンが掛っていた。私はいつもそれを一杯あけさした。磨硝子《すりがらす》に漉《こ》さるる日の光が、室の中を温室のようにした。窓を開くと、隣家の軒に遮られて僅かではあるが、蒼空が見えた。
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