鏡でのぞいてみたが……口を開いて指を一本くわえてる自分の顔が、ひどく醜《みにく》かった。あの人がよく私の後ろからそっと見た鏡の中の顔、そういう時の顔が一番好だとあの人は云っていた。……あの人はどうしてるんだろう。
 ばか、ばか、とあたしは自分に云ってやった。そしてなお歯をゆすった。痛かった。痒いところをつねるような痛さから、もうそれを通りこして、頭のしんに響くような痛さになっていた。忘れよう忘れよう、心の底であたしは云った。そして歯をゆすった。何だかしらんが無精《むしょう》に腹が立った。そしてとうとう、力任せに歯をひっこぬいてしまった。
 あたしはびっくりした。冷い風が、歯のぬけた跡から吹きこんで、身体中を吹き廻った。そのくせ、熱いきりきりした痛みが、顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》のあたりまでのぼってきた。上の平たい根の長い歯を、あたしは懐紙《ふところがみ》に包んで、鏡台の抽出《ひきだし》にしまった。その時気がつくと、口の中が血で真赤になっていた。あたしは懐紙をくわえた。歯の跡が大きな空洞になっていた。身体にも心にも、力の心棒がなくなったようだった。あたしは泣きだした。
 男の声がした。言葉は分らなかったが、はっきり声が聞えた。あたしははっとした。振向いてみると、男はねぼけた顔付で、不思議そうにこちらを見ていた。あたしは笑ってみせようとした。けれど、つぎほがわるく、またなさけなかった。頬辺を押えて顔を伏せた。
 男はのっそり腹逼いになって、煙草を吸いだした。
「何をしてるの、そんなところで……。」
「歯が痛いのよ。」
「歯が痛い……?」
「あんまり痛むから抜いちゃったわ。癪にさわって……。」
 云いかけてあたしはまた泣き出した。そこら中に当りちらしてやりたかった。どうにも我慢が出来なかった。
「歯が痛むくらい……、」と男は云っていた、「一寸医者に行ってくれば、じきになおる。……もう夜が明けてるよ。」
 ほんとにもう夜が明けていた。窓のカーテンを開くと、室の中までぼーっと白《しら》み渡って、電燈の光が薄くなった。
「じゃあ一寸行ってくるわ。その代り、じきに帰ってくるから、待っててね。寝て待ってるのよ。屹度ね。」
 そしてあたしは、慌てて着物を着て、裏口から飛び出していった。
 薄曇りのどんよりした日だった。何だか夢の中のような朝の明るみだった。
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