…。」
「何だかいや。帰したくない。こうして始終逢ってても……それでどうなるの。お金だって……。それだけのお金があれば、間借りしてでも、立派にやっていけるわ。そりゃあ、あんたには奥さんも子供もあるし、あたしはこんなとこの女だし、分ってるけれど……ねえ、片岡さん、どうしたらいいの。」
「だからさ、僕も考えてるんだ。今のことじゃなく、君の一生のこと、お婆さんになった時のことまで考えてるんだ。二月《ふたつき》か三月《みつき》、半年か一年、それだけなら、今すぐにでもどうにでも出来る。然しそれから先がさ、さよならをするようなら、つまらないじゃないか、僕は君の一生のことを考えてるんだ。分ったかい、喜代ちゃん。」
 私の語気は全く真剣になっていた。実際私は、彼女の一生のことを考えていた。
 彼女は嘗て、横浜の海岸で身を投げようとしてるところを、見付かって家に連れ戻された。それから、父の石塔の金をさらって逃げ出した。それから世の中に孤立してきた。石塔の金を是非とも返してみせる、それが彼女の唯一の目的だった。
「それから先は、もう真の闇よ。」
 話は嘘にせよ、真《まこと》にせよ、その時の彼女の眼付には不気味な光が籠っていた。
「あきれた女でしょう。」
 そして晴れやかな笑い方をした。
 その頃である。私は夢の中で素敵な詩を拵えた。胸が躍った。然し眼が覚めてみると、そのすばらしい詩の文句は、風に吹かるる落葉のように四方へ散乱してしまって、ただ二句が残ってるきりだった。
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彼女を美しいとは云うまいぞ、
彼女を美《び》だと云おう。
[#ここで字下げ終わり]
 実際彼女は美しい女とは云えなかった。顔立は私の好みにかなっていたが、少しつき出し加減の口のあたりに、余り怜悧でない卑しさがあった。私の心を惹いた眼も、普通の人にとっては一種の不具だったろう。ただ、その眼瞼の二重と耳の格恰だけは美事だった。――その彼女の全体が、私にとっては、泥土の中に影の中に転ってる美だった。
 それを、明るい日の光の中に移したい、彼女を朗かな生活の中に返らしたい、と私は考えた。
 一度私は彼女を外に連れて出た。然しそれは夜だった。日の光がなかった。一寸芝居を観て帰った。一度は食事をしに外出した。彼女は長いコートを着て草履をはいて、子供のような足取りで歩いた。
 そうしたことで、私の五百円はわけな
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