ろなことで、親父に内緒で借財もあるし、この際何か仕事を見つけて働こう……かしら。仕事……それ自身はたとえ無意味なものであっても、それは私の生活に或る目的を与えてくれるかも知れない。そしたら彼女の……肉体にも、何か……何か……精神的なものを注ぎこむことが出来るかも知れない……。そんなことを頭の中で、夢のように反芻してみましたが……然し、少しも熱意がもてませんでした。酔払いのたわごとと同じでした。
「いやに沈んでるね……ばかだな、も一度子供でも拵えるさ。」
 本当の気持で云ったのでしょうが、私の胸にぐっときました。
「そしたら、また絵をかいてくれるかね。」
 小野君は口をつぐんで、妙に眉をしかめて私の顔を眺めました。不思議にも、私は彼を殴りつけてやりたくなり、敵意に満ちた気持で酒をあおりました。そして彼を引っぱっていって、或る待合にあがりこみ、自動車でトキエを迎えにやっておいて、芸者を二三人よんで騒ぎました。酔ったあげくとは云え、後で考えると、ちょっと冷汗ものです……。
 トキエは、世帯をもってから殆んどつけなかったはでな着物に、縫紋の羽織なんかひっかけて、にっこり笑ってはいって来ました。そして私の側にぴたりと坐ると、芸者たちに鷹揚な軽い会釈をして、小野君に、今晩はと……それだけが瑕で……口先だけの挨拶をしました。いつにないその見上げた態度に、私は少しぼんやりしました。小野君は呆気にとられたように、黙ってしまいましたが、トキエから銚子を差出されると、てれたように頭をかいて、それからまた飲み初めました。トキエは嬉しそうな様子でした。暫くたつと、三味線をかりて弾いたりしました。私は白けた気持になって、酒の酔だけが身内に残って、脇息を横倒しに枕にして寝そべっていましたが……どうした調子でか、トキエが眼に涙をためて、芸者に酌をさしてぐいぐい飲みだしたのが、眼につきました。子供のこと……ミヨ子のことと、彼女の腹の中にある者のこととが、頭にきて、私は飛び起きてその杯を奪いました。箸で小皿の縁を叩いて朦朧と歌っていた小野君が、不公平だとか専横だとか云い出したのを耳にも入れずに、私はじっと彼女を見ますと、彼女もそのうるんだ眼で私を見返しました。どうも、昔初めて逢った時のような……そんなことは覚えてはいませんが……親しみの薄い眼付です。そうです。私は妙に淋しいんでした。酒をぐいぐいあおって、三味線をじゃんじゃん弾かして、そして立上りました。何かかんかぐずってる小野君を置いて、さっさと帰っていきました。自動車の中で、トキエの手を握っていると、涙ぐましい気持になって、そして遠くで、ぽつりと、真剣な気持が動いてました。……そして彼女の室に戻ると、私はその温い肉体にすがりついていきました。甘ったれたようなばかげた気持でしたが、やはり遠くに、何か真剣なものがありました……。彼女はいつもの彼女に返って、落着いた微笑を浮べていました。
「どうかなすったの。」
 それきりで、私の返事も待たずに、彼女はまた笑顔をしました。
 彼女は仕合せかどうか、こんな暮し方をしていて不安ではないか……私はそう尋ねようとしましたが、彼女の返事が分りきってるので、やめました。仕合せだと云うにちがいありません。その分りきってることが……それだけでいいのかと、自分のことになって、不安になるのです。誰かがんと殴り倒してくれる者があったら……私を?……彼女を?……いや、それよりも、私達はもう別れられなくなっているのを、私は現実にそして憂欝に感じていました……。一体私は何を求めていたのでしょう……。



底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3[#「3」はローマ数字、1−13−23])」未来社
   1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
初出:「文芸」
   1935(昭和10)年10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年5月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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