た方がいい、思いきって泥濘の中を覗きこむ時、本当に清純な反抗心が起るものだと、その議論になって、そのうちいつしか二人別れ別れになり、私は家に戻ってしまいました。
翌日、宿酔の気味で、私はぼんやりしていました。鼻のつんと高い口許のしまった、インテリめいた女給の顔が、思いがけなく頭に浮んできたり、心の底に、ちらちらと、捉え難い火花が閃めいたり、もう息をするのも嫌なような、深い憂愁に沈んだり……なんだか自分で自分が分らなくなっていますと、午すぎに、小野さんから電話です。はっとして、急いで立っていきますと、電話の主はトキエで、子供が病気だからすぐに来てくれと……。
行ってみると、トキエはいつもの落着いた様子で、すみませんと、笑顔をしています。だが、子供は九度以上の高熱で、かっとほてって、そして水分の乏しいようなしなび方をして、昏々と眠り、時々手足の筋肉を、ぴくりぴくりさしています。前々日の晩から熱が出て、乳ものまず、肺炎らしいとのことでした。私はそれを、胸にぎゅっと抱きしめたい衝動にかられました。胸に裸のまま抱きしめて、この自分の身体でもって、あらゆるものから防護してやりたいのです……。
夕方、医者がまた来まして、危険な状態とのことでした。私は万一を慮って、小野君に速達便を出し、手筈をきめておいて、家にかけ戻り、小野君が伊豆の方に絵を書きに行くからついて行くことにした……二三日、という風にとりつくろいました。なさけない半ば捨鉢な気持が動いていました。
夜半に、子供は乳を求めだしました。一口二口吸っては、またぐったり眠り、暫くするとまた乳を求めます。そういうことが、二時間ばかり繰返されて、あとはもう死のように静かな眠りとなりました。私は始終氷をかきに立ち働きました。トキエは子供の側に、膝をくずして坐っていました……乳をやるために、そしてその顔を見守るために。全く、それだけが彼女の仕事のようでした。その泰然とした、そして滑かな美しい肉体のなかに、どういう考えがあるか、私は探ろうとしましたが、何にも掴めませんでした。彼女は時々、心持ち眉をひそめた眼付を私の方に向けましたが、私達は別に話すべきものも持っていませんでした。時折、表を自動車が通って、その響きが室に伝わる度に、私は子供の寝息をうかがい、そして何ということなしに立上ったりしました。窓からすかしてみると、深い霧の夜で、空気には絹針のような秋の冷えが感ぜられます。もう夜明け近いのでしょう。私はトキエを少し眠らせようとしましたが、彼女はうなずいたきりで、別に眠たそうな様子もなく、静に坐りつづけています。私はうとうとしたり、はっと眼をさましたり、何かに驚いて飛び上る心地になったりしました。子供の唇にはもう血の気が見えませんでした。
翌朝、小野君が来てくれた時には、私はただ奇蹟を待つだけのような気持になっていました。
その夕方、子供は静に……消えるように、死んでいきました。ミヨ子という名ばかりで、何かを……恐らく混沌としたものを、見たり聞いたりしただけで、意味のある言葉は一言も云わずに消えてしまったのです……。そしてその夜、小野君が遠慮して帰っていってから、トキエは、子供の真赤な布団の中にすべりこんで、その死体をだいて横になりました。私は涙ぐみながら、怒って、叱ってやりました。そんなことをするものではない、死体を抱きかかえるくらいなら、病気にならないように、用心してやるべきだったと……。
「だって、お医者様も、仕方がないって云っていらしたわ。あたし、なんだか、この子は初めから寿命がないような気がして……やっぱりそうだったのね。小さい時、お祖母さんが御病気の時に、あたし聞いたことがあるわ、世の中には大きな潮の流れみたいなものがあって、むりに逆らおうとすると、却って溺れるばかりだって……。お祖母さんは、ほんとにあたしを可愛がってくれたのよ……。」
それが、二十を二つ三つ越したばかりの、肌のなめらかな小柄な若い彼女と、しっくり調和してるのでした。そういう若さがあるものです。而も彼女はもう母親で、死んだ子供の身体を抱いて、その冷さも感じないらしく、ぼんやり夢想しています。天井が低く、薄暗く、窓硝子はよごれ、障子や襖の紙は古ぼけていて、その中に、ぱっと真赤な布団に、死体を抱いて横になってる若い彼女……そうした室の中を、私は惘然と見廻して、何かしら大きな声で、泣くか怒鳴るかしたい気持に駆られました。階下では、小女がことことと、何か片附物をしていました。
坊さんの仏事を一通り辛棒し、万事は葬儀屋に頼んで、それから小野君を交えて三人でミヨ子を骨にしました。初七日がすむと、トキエは子供の遺骨を葬りに、久しぶりに母へも逢いに、名古屋へ行ってくることになりました。私に一緒に来てほしいような様子も見せ
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