飲みましたね。」
二人は互に食い入るように眼と眼を見合った。木下は一歩進んだ。信子はつと身を引いて、唇を少し歪めながら天井を仰いだ。痩せた襟筋に小さな喉仏が見えた。
「ええ私酔ってますわ。」と彼女は云った。
木下は陰惨な瞬きをした。が俄に笑い出した。
「ははは、カフェーのお信さんに逆戻りですか。」
「ええそうかも知れませんわ。」
「そしてマダム岡部はどうしました?」
信子は急に振り向いた。顔色を変えていた。
「何を仰言るのです?」と彼女は云った、「失礼な!」
その最後の一句が何とも云えない調子外れの響きを与えた。今までの気分が何処かへ吹き飛ばされてしまった。二人は妙にきょとんとした顔を見合った。泣いていいか笑っていいか分らなかった。しまいには苛ら立った憤りの情のみが残った。木下は肩を聳かした。
「信子さん、私はあなたに云って置きます。もう私はあなたの玩具《おもちゃ》にはなりたくありません。あなたを凡て所有するか凡て失うかです。」
信子は彼の顔をじっと見つめた。
「それでどうなさろうと仰言るのです?」
「どうする、ですって? あなたは今更そんなことを云うのですか。あなたの心は何処に在るんです? 私はそれが知りたい。岡部君の容態の見極めがつかなくて苦しさの余り、一寸私に縋りついて来たばかりだ、そんなことを私はもうあなたに云わせはしません。私は岡部君に、私達は愛しているとはっきり云いました。岡部君も、君達は互に愛し合ってくれと云いました。熱に浮かされてたのではありません。何でもはっきり知っている、と岡部君は私に言明しました。今となっては、あなたが自分で自分を解決するばかりです。それで凡てが決します。私は岡部君と争おうとは思わない。病人と争おうとは思わない。然しこのままの状態でいることは出来ません。あなたの一部分だけを、憐れみの情から恵んでほしくはありません。凡てを得るか凡てを失うかです。そして周囲の事情は、もう猶予を許しません。岡部君の両親がどんな考えでいられるか、あなたにも分るでしょう。岡部君のお母さんが云われた言葉の意味は、あなたにも通じてる筈です。私は落付いてはいられない。何れかに決定しないうちは……。」
「木下さん、私は……。」
「何です? 云って下さい。私はどんなことでも期待している。覚悟しています。」
「あなた方は、私を品物か何かのように取引しようとしていらっしゃるのでしょう。いえ、そうですわ、そうですわ。岡部とあなたとは、私を品物か何かのようにやり取りしていらっしゃるのです。」
木下は組んでいた両腕を振りほどいた。そして両の拳を握りしめながら、信子を見つめた。それから眼を閉じた。身体を震わしていた。また眼を開くと、急に大きく息をついた。彼は云った。
「あなたは私を軽蔑していますね。いや私の心を踏み蹂っています。品物か何かのようにやり取りしてるとは……余りの言葉です。あなたこそ、私と岡部君との間を飛び廻ってるじゃありませんか。然し私はあなたと議論したくはない。私の愛を信じなけりゃ信じないでいいです。私を軽蔑なさるがいいです、……岡部も私を軽蔑してる。魔睡から覚めてからは、何を云っても平気で澄し込んでいる。私の友情を、私の心を、高い所から見下すようにして落付き払っている。……軽蔑するならするがいいさ。私は軽蔑されるに適当だろう!……あなたも軽蔑なさるがいい。然し私は、そんなことに参ってしまいはしない。解決するまでは、あくまでもぶっつかっていってやる。その覚悟でいらっしゃい。私の心を踏み蹂っておいて、よくも平気で……。」
彼は終りまで云ってしまうことが出来なかった。言葉を途切らして、唇を震わした。両手で帯の前の方を握りしめ、肱を張って、肩をすぼめ、顔を前方につき出して、黒光りのする眼で、窓の外の板塀を睥んでいた。信子は云い知れぬ恐怖に囚えられた。彼女は窓縁から飛び下りて、其処に立ち悚んでしまった。
沈黙が続いた。木下はいつのまにか眼を沾ましていた。彼は俄に我に返ったように、つと手を伸して信子の手を執った。それを堅く握りしめながら云った。
「信子さん、許して下さい。私は、自分の魂が次第に醜くなってゆくのを知っています。浮び出ようとすればするほど、益々流の中に沈んでゆくような気がします。然し、私の心を信じて下さい。私は淋しいのです。この淋しさは、あなたには分らないかも知れない。岡部君を持ってるあなたには……。」
木下は歯をくいしばった。そして倒れるように、今まで信子が掛けていた窓縁に腰を下した。
「私が悪いのです、私が!」と信子は叫んだ。
彼女は木下の腕に縋りついた。木下は意識を失ったかのように、深く瞑想に沈み込んで身動きさえもしなかった。……突然、信子は激しい恐怖に震え上った。彼女は両手を握り合して、後退りしながら室を出て行った。入口で一寸足を止めた。木下は頭を垂れて、黙り込んでいた。彼女は急に身を翻して出て行った。
木下はじっとしていた。
十四
啓介は、頓服薬をまたのみたいと云った。身体に障るからと云って高子がとめた。啓介は黙って首肯いた。然し夜になると、彼は自然の眠りに落ちた。眠りは安らかだった。一時過ぎに眼が覚めた。
深い静寂があたりを包んでいた。啓介は眠った風を装って、室内の様子を窺った。何の気配もしなかった。細目に覗いてみると、高子と信子とが起きていた。信子はだらしなく炬燵によりかかっていた。高子は何かの書物を読んで居た。啓介はまた眼を閉じた。
生きてることを意識する光りが、彼の心に射していた。しみじみとした爽かな光りだった。云い知れぬ感激が胸からこみ上げてくるのを、彼はじっと押えた。「神よ!」と呼びかけてみたくなった。広い無際限の野に出ていた。「神よ!」と呼びかけたくなった。然し、眼瞼のうちに射し込んでくる電灯の明るみをしたって、半ば眼を開いた時、すーっと黒い影が掠め去った。彼はあたりを、心の中の隅々を、顧みた。まざまざとした記憶が、眼を開いてきた。取り返しのつかない事実が、その背後に聳えていた。彼の頭の中には打ち消すことの出来ない印象が刻み込まれていた。
木下と信子との関係がどの程度まで進んだものであるか、彼は少しも知らなかった。然し背景となるべき雰囲気と事情とを考えて、ただ心と心との結ぼれに過ぎないことを疑わなかった。然しその心をこそ、信子の心をこそ、あれほど苛ら立ちながら彼は求めていたのであった。今その心を失ってしまったことを思うと、彼は堪らない寂寥に襲われた。信子との深い愛の日のことが思い出された。その一つの記憶の糸をたぐると、凡てのことが展開されてきた。敢然と肯定してはいっていった愛の生活、両親を捨てて家を飛び出した前後の事情、世に隠れて移り住んだ一室、絶えず胸に沸いてきた奮闘の力と信念、それらが……僅かな一撃の下に崩壊してしまった。而もそれは、二人が身を托した友人の手によって為された、自分の半身だと信頼していた彼女の手によって為された。彼は足場を失って無限の深みへ落ちてゆくのを感じた。そして今、陥った無限の底に達すると、何処からともなく仄かな明るみがさして来るのを知った。それは自分が存在してるというかすかな意識だった。彼はその明るみに縋りついた。上に浮び出ると、涙ぐましいばかりの生命の光りが漲っていた。すると、僅かな気分の揺ぎに、その光りがふっと陰《かぎ》っていった。過去の事実が巖として聳えていた。彼はまた無限の暗い深みへ陥っていった。斯くて彼は、先夜死の幻の暗い穴を脳裏に去来さしたように、闇と光りとの間を往来した。然し今投げやり投げ返されるのは彼自身であった。そして、殆んど律動的な残忍な上下動に身を任しているうち、彼は遂に一つのものに辿りついた。それは無限の底に身を落付けることだった。生きるということの光りを見捨てて、ただ存在するという仄かな明るみに、深い闇の底に何処からともなく射してくる明るみに、闇を安住させることだった。其処から外を眺めると、凡てが静かに、ほんとに静かに、じっと落付いていた。「信子!」と彼は呼んでみた。「木下!」と呼んでみた。何の反響も伝わらなかった。母の名を呼んでみた。静かだった。彼は手足を伸して安らかに横たわった。病室の空気も、今は親しくなつかしく思えた。――然し其処に達するまで、彼は魔睡から覚めて以来絶えず苦悩を続けた。或時は、病に衰弱しきった自分の精神に絶望した。或時は、殆んど夢幻のうちに彷徨した。何を云われても彼は黙っていた。余儀ない場合には出来るだけ簡単な返事をした。もし、木下と信子とが何故にああなったかを考察したならば、彼の苦悶はそれほど残酷ではなかったろう。然し彼の頭はその「何故に?」ということに働きかけなかった。彼は結果の事実にのみぶっつかっていった。彼の顔の筋肉は硬ばって、額は暗い皺を刻んでいた。ただその心には、深い所から射す安らかな光りがあった。彼は落付いていた。深い安らかな心の光りで凡てを眺めた。
落ち付いた彼の心を乱すものは、ただ一つきり残っていなかった。それは先夜の自分の提議であった。木下に信子の未来を托さんとする提議であった。ああいうことをすべきであったか否かを、彼は自ら尋ねた。そして躊躇なく否と自ら答えた。自分の死後を自ら規定する権利、それは誰にもないのであると、彼は考えた。彼は激しい自責の念に襲われた。そして、その自責の念を掘り下げることによって、彼は益々深い所へ落付いていった。もし彼が何故にああいう提議をしたかと自ら尋ねたならば、彼は更に深い動乱に陥ったであろう。茲に在っては、彼の意識がその「何故に?」を逸したことは、却って彼に幸した。然し彼は自分の自問自答に、何か不足なものがあるのを覚えた。しきりに深い落付きを求めている彼は、なお考えを止めなかった。そして幾度も同じ問いと答えとをくり返した。
眼を転じて室の中を見廻すと、まだ信子と高子とが起きていた。
「もういいから、寝《やす》んで下さい。」と彼は云った。「起きていられると何だか眠《ねむ》れない。」
然し二人は寝ようとしなかった。彼はまた同じ言葉をくり返した。
「では寝みましょうか。」と高子は云った。
信子は黙って首肯いた。
高子は、病人の湿布と氷とをすっかり取代えた。そして床にはいった。信子も床をのべた。
啓介は眠ったがように眼を閉じてしまった。そして頭の中で、凡ての観念を自分と同じ深い底に落付けさせようとした。ともすると、一つの観念がぽかりと上の方へ浮び上った。彼はそれを漂い所へ引き寄せた。また他の観念が浮び上った。彼はそれを引寄せた。やがてその仕事に倦み疲れて眼を開くと、信子がまだ炬燵によりかかっていた。
「もうお寝みよ。」と啓介は云った。
信子は驚いたように顔を上げた。真蒼な色をしていた。眼をきょとんと据えていた。暫くして思い出したように返事をした。
「はい。」
それが余り程経てだったので、啓介はくり返した。
「もうお寝みよ。起きていなくてもいいから。」
信子は眼をくるりと動かした。
「寝たくないから、勝手に起きてるんですわ。」
啓介は黙ってまた眼を閉じた。彼女の心が最も悪い状態に在るのを彼は知った。責任が自分に在るような気がした。自責の念が益々深められていった。然し悔恨となっては現われなかった。ただ深い自己沈潜を助けるのみだった。彼は殆んど夢幻の境にまで沈んでいった。どん底に達したかと思うと、また一段と深い所が現われてきた。自分は存在してるという意識の底に、その仄白い明るみの底に、更に空虚な闇が湛えていた。その闇の中に覗き込むと、ただ茫として、怪しい幻が立ち罩めてるようだった。其処では個性が許されなかった。凡てが一つの大きな渦に融け込んでいた。彼は眼が眩むように覚えた。……はっと我に返ると、凡ての注意が一つ所に集められていた。彼はその急激な変化に、暫く息さえも出来なかった。やがて次第に何のことだか分ってきた。襖の外の廊下に何かの気配《けはい》がした。彼は凡ての注意を其処に集めた。あたりがしいんとしていた。
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