の務めだ。」
「ああ、入院しよう。種々なことは頼む。」
 二人共落付いていた。言葉の調子も静かだった。ぶっつかるべきものにぶっつかっていった後の安らかさだった。解決はしていなかった。然し苦しむことによって二人は解決の外に出ていた。木下は落ち凹んだ眼を、じっと畳の上に落していた。彼は云った。
「僕は君と交りを絶つ前に一言云っておく。生死を背景にした賭事《かけごと》は云わないようにし給え。これが僕の最後の忠告だ。」
「あり難う。」と啓介は答えた。
 木下は障子の硝子から外をすかし見た、晴れ渡った青い空があった。快い日の光りが一面に落ちていた。彼は暫く躊躇した。それから立ち上った。
「では行って来る。」
 彼はそのまま室を出て行った。
 室の隅に坐っていた信子は、俄に立ち上った。啓介は眼を閉じた。彼女は夢みるような眼を見据えた。肩を震わした。そして木下の後を追って行った。
 木下は画室に居た。マントを着ていた。信子がはいって来たのを見て、ぐるりと向き直った。
「何しに来ました?」と彼は云った。
 信子は一足退った。それから入口の扉につかまって、眼を見据えながら唇をかんだ。
「もうあなたは私に用はない筈です。」と木下は云った。「お慈悲の涙は流して貰いたくありません。……あなた達から見たら、私の魂は汚れて醜くなってるでしょう。然し私は、自分の魂の醜さから力を汲み取っている。凡てを呪ってやる。人生を呪ってやる。呪いながら自分の魂を黒く塗りつぶすことから、私は生き上ってゆく。私は淋しい。この底の無いような深い淋しさを、骨の髄まで喰い入るような淋しさを、私はあくまで自分のものとしてみせる。私は親友を失った。愛を失った。然し生きる力は失わない。私の魂が醜くなってゆくことは私が生きてゆく証拠だ。」
 木下は踵でくるりと廻った。それから卓子の上の帽子を取った。
「あなたは何を恐れているのです。何も恐れることはない。なるようになったのです。」
 木下は徐《ゆるや》かな足取りで大股に室から出て行った。信子は扉から壁へ沿って身をずらしながら、木下を通した。
 彼女はそのまま壁につかまって、石のように固くなった。暫く身動きもしなかった。と突然、幻をでも見るように室の真中を見つめた。それから俄に身を研して、画室から飛び出した。髪油のついた両手を拡げてやって来る高子と、廊下で行き合った。彼女は慴えていた。病室の中に逃げ込んだ。静かだった。
「どうしたんだ、つっ立って。」と啓介は云った。
 信子は片隅に坐った。そして、追いつめられたように肩をすぼめた。過去のことが凡ての重さで、彼女の後ろからのしかかってきた。何れへ行こうと自由だと考えていた彼女は、自分の身を繋いでいる眼に見えない多くの鎖を、愈々の時になってまざまざと感じた。既に一人の男に身を任したことのある女性のみが知る鎖だった。彼女の悩みは、頭の中だけのものではなくて、実質的のものとなった。呼吸の度に、心臓の鼓動の度に、うち揺いでいる自分の柔かな肉体を、彼女は着物を通して見つめた。その肉体に泌み込んだ男の息吹きが、まざまざと感ぜられた。永久に絶ちきれない鎖、消すべからざる絡印。それから脱するには身を殺すより外に途はなかった。
 啓介は一言も口を利かなかった。信子も黙っていた。そして彼女は、もう一歩も病室の外に出なかった。

     十六

 十一時、雅子が女中を連れてやって来た。
「入院するんですってね。」と彼女は云った。「もう動いても宜しいのですか。木下さんの電話が余りだしぬけなものですから、私は夢のような気がしました。それでも、こんな嬉しいことはありません。ほんとに早くよくなって下さい。入院して早くよくなって下さい。」
 彼女は室の中を見廻した。
「木下さんは?」と彼女はふと気がついたように尋ねた。
「病院に行ってるのでしょう。」
「そう。」そして彼女は信子の方を向いた。「あなたも、病院についていて下さいましょうか。」
「はい。」と信子は口の中で答えた。
「それから……、」と雅子が云いかけた時、信子は其処につっ伏して泣き出した。声を抑えながら、あとからあとからと咽び上げた。雅子も涙ぐんだ。啓介はつと起き上ろうとした。そして床の上にまた倒れた。高子が彼の身体を支えてやった。
「すぐに仕度をして置きましょう、いつでも病院に行けますように。」と高子は云った。「静にして被居いましよ。私に任しておいて下さい。大丈夫ですよ、あの病院ならそう遠くはありませんから。」
 彼女は床の間の種々な物を取りまとめ初めた。信子も立ち上った。然しまた其処に坐ってしまった。涙がこみ上げて来た。雅子がその側にすり寄った。
「あなたにもほんとに苦労をかけましたね。悪く思わないで下さい。」
「いいえ、私は……。」と信子は云いかけて、声を呑んだ。
 しめやかな沈黙が続いた。高子は一人で幾つもの風呂敷包みを拵えた。
 やがて木下は戻って来た。額は汗ばんでいた。彼は雅子にお辞儀をして、啓介の方へ口早に云った。本田医学士が便宜を計ってくれたこと、病院の一等室を一つ空けて貰ったこと、本田氏は容態を気遣ったが、大丈夫だと自分で引受けて無理に頼んできたこと、午後三時前に寝台車と俥四台とが来るようになってること、本田氏が病院で待っていてくれること、河村氏もその時病院の方へ来て貰えること……。
「俥は四台で足りるかしら、」と木下はつけ加えた、「僕は歩いて行くからいいが。」
「宜しいでしょう。」と高子が答えた。
 啓介は眼をつぶった。寝台車に運ばれて病院へやって行く光景が、眼瞼の中に見えてきた。それは丁度死体を運ぶがようだった。静まり返っていた。堪らなく淋しかった。何の物音もしなかった。眼を開くとその光景が消えてなくなった。木下が上目がちに天井の隅を睥んでいた。
「木下!」と啓介は云った。
「岡部!」と木下は答えた。
 数瞬間……そして木下はつと立ち上った。こみ上げてくる愛憎の戦《おのの》きを胸の中に押え止めながら、画室で一人で泣くために、室を出て行った。向うにじっと坐って木下の後姿を見送ってる母と、低く顔を伏せてる信子とを、啓介はちらと見やったが、かすかに唇を震わしたまま、また眼を閉じてしまった。



底本:「豊島与志雄著作集 第一巻(小説1[#「1」はローマ数字、1−13−21])」未来社
   1967(昭和42)年6月20日第1刷発行
初出:「新小説」
   1920(大正9)年5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2008年9月18日作成
2008年10月20日修正
青空文庫作成ファイル:
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